縮まらない距離①
その日のパトリック・エヴァンスのミニライブは、達也にとって思い出深いものになった。
バーの中にはパトリック・エヴァンスとピアノの伴奏をする百合、総支配人の高畑とエヴァンスの動画を撮影するスタッフが2人。
そして、たった一人観客として招待された達也のみ。
東京のキラキラとした夜景をバックに聴くエヴァンスの歌声と百合のピアノの伴奏は、まるで夜空に流れる流星群のように達也の感性に入り込んでいく。
全てが美しいな、と達也は思った。
小さい頃から人一倍感受性が強かった達也にとって、人生を生きるだけでも辛いことが何度もあった。
自分は人から見れば恵まれすぎている環境にいるのかもしれない。しかし、日々の些細な出来事がまるで凶器のように自分の心に突き刺さってくることがある。
自分に直接関係あることでもないことでも、世の中は辛く悲しい現実に満ち溢れている。
だから、こういった美しい瞬間に立ち会えると、「生きていてよかった」という気持ちになる。心が温かいものでいっぱいになってきて、また生きよう、また小説を書こう、という気持ちになってくる。
達也は演奏を聴きながら軽く瞼を閉じた。
*
ライブが終わり、パトリック・エヴァンスがさわやかな笑顔を残してバーを去った後も、達也はしばらく夢見心地な気分でいた。
何とかエヴァンスにお礼を言って、最後に再び握手して別れたが、その後、達也は倒れこむようにソファに座りぼんやりしてしまった。
こういう時も百合は優しい。達也がぼんやりしている近くに座り、何も言わず、いつもの無表情で東京の夜景を眺めていてくれた。
達也がふと我に返ると、かなりの時間が経っていたらしい。
百合はあの美しい緑のドレス姿のまま、達也の近くにまるで女神の彫刻のような無表情で座っている。
「どうぞ」
高畑が気をきかせて、百合と達也がいるテーブルにコーヒーを置いてくれた。
達也はコーヒーの香ばしい香りで我に返り、「あっ」と声を上げた。
「すみません、居座ってしまって」
慌ててソファから立ち上がった達也に、高畑はにこにこしながら首を横に振った。
「いいえ、気になさらずに。あんなに素晴らしい演奏を聴いた後ですもの、余韻に浸りたい気持ちはわかります。どうぞ、ゆっくりして行ってください」
「ありがとうございます」
達也はソファに座りなおすと、コーヒーを一口飲んだ。
普段、紅茶ばかり飲んでいる達也だが、このコーヒーは口当たりがマイルドで気に入った。
さりげないのに、コーヒーの優しい味が体や心に染みわたってくる。このコーヒーを出してくれた高畑に似ているように感じた。
達也は高畑がなぜこのホテルの総支配人をしているのかわかった気がした。高畑を総支配人にした自分の父親の人を見る目には、改めて感心させられる。
百合も高畑が持ってきたコーヒーを一口飲んだ。
百合は本当にすごいな、と達也は思った。百合はたったさっきまで、世界的な有名なアーティストと共演していたのだ。
演奏していた時は堂々としていたし、今も普段と変わらない表情をしている。
「ライブの時、何で緊張しなかったの?」
達也が隣にいる百合に訊くと、百合は「えっ?」と達也の方を向いた。
「いや、さっき、パトリック・エヴァンスと共演している時、緊張していなかったな、と思って」
「何言っているの? 緊張していたに決まっているじゃない」
「えっ? そうなの?」
達也は百合の意外な返答に驚いた。
「そうよ、当たり前じゃない」
「そうなんだ。でも、やっぱり百合はすごいな。緊張していたなんて、まったく気づかなかった」
百合は「本当にさっきまで緊張していたのだろうか?」と疑問を持つような無表情で、またコーヒーを一口飲んだ。
「達也だって、すごいじゃない」
「えっ? 僕が」
「そう。あのパトリック・エヴァンスが『勇敢だ』って、無観客のライブに招待してくれたのよ。すごいじゃない」
「ああ、あれは夢中だっただけだし」
達也は百合に褒められて、自分の顔が赤くなってくるのを感じた。
百合はそんな達也にちらりと視線を送ると、「あの時は本当にありがとう」と小声で言った。
百合は「すごいじゃない」と言うが、パトリック・エヴァンスに招待されたのは百合のおかげだ。
百合を助けようと思わなければ、自分は凶器を持っているエミの元カレの前に出て行こうとはしなかっただろう。
普段の自分は弱気で、言いたいことも言えない情けない男だ。
しかし、百合の前では、パトリック・エヴァンスの言う通り「勇敢な男」になれるかもしれない。
達也は自分の腕時計に目を落とした。まだ今日が終わるには時間がある。
とりあえず、バーを出たら今日こそ百合を食事に誘おう。そして、自分の気持ちを打ち明けよう。「ずっと、百合のことが好きだった」と。初めて会った時から好きだったと。
達也はふと、自分の目の前にあるテーブルに花が生けてあることに気づいた。
あの西園寺エミのカメオのブローチと同じマーガレットの花が、ガラスの花瓶に生けられている。
達也は百合がさっき話した、マーガレットの花言葉を思い出した。
(――真実の愛、か)




