ライブ当日⑫
百合がバーの扉を開くと、「いらっしゃいませ」という声が聞こえてくる。
百合に深々と頭を下げて出迎えてくれたのは、この間会ったバーのマスターだった。
「高畑さん、達也も連れてきました」
このバーのマスターの名前は「高畑」と言うのか。
高畑は達也にも深々と頭を下げ、「いらっしゃいませ」と言った。
「あっ、はい、この間はどうも……」
日本有数の財閥の息子だというのに、達也は人に頭を下げられるのが苦手だ。達也もお辞儀を返すと、高畑はにこにことした表情で頭を上げた。
(――あれっ?)
達也の頭の中に一瞬、この高畑は何者だろうかという疑問がよぎった。
バーのマスターであることは本当だろうが、今のお辞儀の仕方でもっと違う人物ではないのかという直感がよぎった。
「本日の主役はもうお待ちです。さあ、桜井さんと西村さん、中へどうぞ」
「えっ?」
達也の中にまた2つの疑問がよぎった。
本日の主役とは? そして、高畑はなぜ自分の苗字を知っているのだろうか。
百合は達也がこのホテルを傘下にしている人物の息子だとばれないように注意を払ってくれている。エミに自分を紹介する時も、「達也」と苗字は決して口にしなかった。
なのに、どうして高畑は自分の苗字を知っているのだろうか。
百合は達也の疑問を察知したのだろう。無表情のまま口を開いた。
「達也は知らないだろうけど、高畑さんは達也のことをご存じよ。高畑さんはこのイリーナ・ホテルの総支配人なの」
「えっ?」
本当にそうなの? と達也が高畑を見ると、高畑はにこにこしながら「はい」ゆっくりとうなずいた。
「でも、どうして、このバーで……」
高畑と初めて会った時、高畑はいかにもバーのマスターのような服装をしていた。百合のピアノを聴きながらカクテルを作っていたし、どう考えてもバーのマスターだ。
「私は若い頃はバーで働いていたんです。昔が懐かしくて、よくこうやってクラブフロアでマスターとして立っています」
「そう、だったんですね」
まったく、自分の周りにはピアニストなのに探偵だったり、バーのマスターなのに総支配人だったり、2つの顔を持つ人間がたくさんいる。
まあ、覆面作家をしている自分も人のことは言えない。
「ああ、あと、今回の事件のことは西村さんのお名前が出ないように配慮いたしました。その辺はお父さまと上手くいたしますので、ご心配なく」
「あっ、ありがとうございます」
自分の父親が「上手く」と言っているのだから、本当に上手くやるのだろう。
自分が負傷したことで正体がバレるのではないか。先にそのことを心配しなくてはいけないのに、すっかり忘れていた。達也は胸をなでおろした。
高畑に促されて、百合と達也はバーの中に入った。
部屋に足を踏み入れた途端、達也は部屋の奥に誰かの気配を感じた。
こちらからはまだ部屋の奥に誰がいるのかも見えないのに、ものすごい存在感だ。今はすでに夜。バーの照明は暗めだし、大きな窓の外からは東京の夜景が見える。
それなのに誰かがいる場所からは、目には見えない太陽のように強烈な光が差し込んでいるかのようだった。
達也は胸がどきどきしてきた。手の平にうっすらと汗がにじんでいる。
「Mr. Evans!」
高畑がバーの奥に声をかけると、その強烈な光が達也たちの方へと歩いてきた。
パトリック・エヴァンスだ。
いくら財閥の御曹司の達也とは言え、滅多なことではお目にかかれないような世界的なアーティスト。
姿を見ない内から放たれていた強烈な存在感にも納得だ。
達也はエヴァンスの圧倒的な存在感に呆気に取られたが、百合と高畑はいつもと変わらないような表情でエヴァンスと握手している。
達也は百合の頬に顔を近づけてあいさつしたエヴァンスに、嫉妬する余裕すらなかった。
「残念ながらラウンジ『リリア』でのライブは中止になってしまいましたが」
高畑が訳も分からず驚いている達也に説明してくれた。「エヴァンスさんが『日本のファンに何かしたい』とおっしゃってくださいまして、急遽桜井さんと一緒にバーで無観客のミニライブを行うことになったんです。ライブは動画サイトで配信されます」
「えっ? でも、どうしてそんな場に僕が?」
達也は戸惑った。百合はエヴァンスの伴奏をするのだろうからわかる。高畑だって総支配人だからホテルの代表として来ているのだろう。
しかし、自分は「招かれざる客」ではないだろうか、と達也は思った。
「エヴァンスさんが今日の話を聞いて、達也をぜひ招待したいとおっしゃったのよ」
百合が補足する。それを聞いて、エヴァンスが大きな手を達也に差し出してきた。
「危険を顧みず、ユリとエミを助けてくれたそうですね。You are very brave(あなたはとても勇敢だ)」
同性の達也でもうっとりとするような美しい声でエヴァンスが言う。
ゆっくりと語りかけるように話してくれたから、多少の英会話ができる程度の達也にも何を言っているのかがわかった。
勇敢……。
勇敢なんて、自分には一番似つかわしくない言葉のような気がした。
気が弱くて臆病で、エミにぶつかった男に言葉の一つも返すことができなかったのに。
百合をエミの元カレから助けようとした時だって、自分はただ必死だっただけだ。勇敢なんて、そんな大それた存在ではない。
しかし、エヴァンスに言われると妙に説得力があった。
もしかすると、歴史上で勇敢だと言われている人物たちも、自分と同じなのだろうか。
見た目は堂々としているかもしれないが、みんなが百合を助けようとした時の自分のように、ただ必死なだけだったのかもしれない、とさえ思えてきた。
達也はエヴァンスが差し出した手を握り返した。そして、少しひきつっているが笑みを浮かべて、達也にしては堂々とした声で言った。
「Thank you very much (ありがとうございます)」
エヴァンスは達也の笑みを見て、微笑みを返してくれた。




