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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第一章 乙女の祈り
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ライブ当日⑪

 その時、ドアをノックする音が聞こえた。


 達也は百合を抱きしめようかと思って伸ばした手を慌ててひっこめた。


 百合はノックの音が合図だったかのように途端無表情になり、ソファから立ち上がるとドアの方へと行ってしまった。


 達也が座っている位置からは微妙にドアが見えない。ただ、声の感じからすると、ドアをノックしたのはホテルのベルスタッフのようだった。


 百合はベルスタッフと一言二言話をすると、やがて手に何かを持って達也のところへと戻ってきた。


 百合が手に持っていたものをテーブルに置く。


 それは達也が気を失う前まで着てきたジャケットとシャツとズボンだった。達也がシャツを広げてみると洗ってアイロンをかけてくれたらしく、しわ一つない。


 あのエミの元カレのナイフに切り裂かれたであろう左腕の部分は、端から見るとほとんどわからないように見事に(つく)ろわれていた。腕をナイフで切られた時の血も付いていたはずなのに、シミはどこにもない。


「これ……」


「ホテルのスタッフの人がクリーニングしてくれたの」


 さすがは日本有数の高級ホテルの従業員だ。短時間でこの処置は見事としか言いようがない。


「ありがとう。――あっ、そういえば、僕、いつ着替えたの? まさか……」


 まさか、百合が着替えさせてくれたのだろうか? 達也は思わず顔が赤くなりそうになった。


 百合は彼女には珍しく、少し慌てた様子で首を横に振った。


「ホテルの男性スタッフに決まっているじゃない。達也、これに着替えて身支度を整えて。私も着替えて来るから」


「えっ? 着替える? 百合も?」


 百合は小さく頷くと、そのまま客室を出て行った。


 達也は首を傾げた。百合は達也が気を失う前と同じ、普段仕事で着ているような白いブラウスに黒いテーパードパンツのオフィスカジュアルな姿だ。


 見たところ、汚れるなどの着替えなくてはいけない理由は見当たらない。一体、百合は何に着替えるというのだろうか。


 達也は百合の言う通り、着替えて身支度を整えた。


 なれない手つきでネクタイを結びながら、さっきソファで向かい合って話していた百合はいつもと違って人間味があったな、と思っていた。


 百合もパトリック・エヴァンスを襲撃しようとしたエミの元カレを追い詰めたり、達也が気を失ったりして、心をかき乱されたのだろう。


 百合は達也と会った時にはすでに、クールで無表情な少女だった。しかし、百合は実際には見た目より感情を持っている女性なのだろう。


 百合がなぜあそこまでクールで無表情な人間になったのか、達也にはよくわからない。


 百合の母親は有名なピアニストで年中海外へ演奏活動に出かけているし、父親の栄一も探偵業が忙しい。もしかすると、両親に心配をかけまいとして感情を表に出さないクールな人間になったのかもしれない。


 普段はあのクールなままでいいかもしれない。探偵業をしている時は常に冷静でいた方がよいだろうし、ピアノの演奏の時も緊張が見えては観客が戸惑ってしまう。


 しかし、いつもクールなままでは息が詰まるのではないだろうか。


 せめて、自分といる時だけはもう少し感情を表してくれてもよいのに、と達也は思う。


 百合が自分に感情を表そうとしない気持ちもわかる。24歳にもなって、ネクタイを結ぶことにさえ戸惑っている自分に、百合が気を許して感情を表してくるとは考えられない。


 百合が感情を表してくれるような相手になるには、自分はどうすればよいのだろうか。


 達也はネクタイの形を調整しながら、ため息を吐いた。


 その時、客室のドアをノックする音が聞こえた。多分、百合だろう。


 達也はネクタイがまだ微妙に緩いままだったが、そのまま入り口の方へ行き、ドアを開けた。


「あっ……」


 ドアを開けた途端、達也は思わず声を上げた。そこには女神がいた。いや、大げさではなく、女神のような百合が立っていた。


 百合は演奏用の緑色のドレスを着ていた。


 今日達也が初めて見た時と同じ、パトリック・エヴァンスがライブ用にと用意してくれたと言う、あの緑色のドレスだ。


 百合はドレスに合わせて、いつもよりもしっかりとメイクをしている。赤くツヤのある唇と仄かに漂う甘い香水の匂いで、達也は少しの間ぼんやりしてしまった。


「どうしたの?」


 百合に声をかけられて、達也は我に返った。


 百合の表情はいつも通りクールで無表情だ。さっきの抱きしめたいと思った百合はどこへ行ったのだろうか。すっかり、普段の百合に戻ってしまったらしい。


「どうしたのって、それは僕のセリフだよ。どうしてドレス着ているの?」


「それはすぐにわかるから。私についてきて」


 百合はそういうと、達也に背中を向けて歩き始めた。


 百合は演奏用の靴のヒールの高さで、よくもそこまで歩けるなと思うような普段通りの早足だ。


 達也は気を失ったことで体力が回復したのか、なかなか距離が縮まらないものの、百合の後ろにちゃんとついていくことができた。


 百合と達也はエレベーターに乗り込んだ。百合はスマホがやっと入りそうな小さなバッグからカードキーを取り出すと、認証リーダーにかざす。


 この光景、前に見たことあるな、と達也は思った。


 エレベーターが停まって扉が開くと、そこは前にエミの元カレをまくために百合と一緒に来たクラブフロアの階だった。


 百合は何の躊躇もなくまっすぐ歩いていく。


 達也も百合の背中を追いかけるようについてった。二人はやがて百合が『乙女の祈り』を披露したバーにたどり着いた。

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