ライブ当日⑥
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エレベーターで2階に来た達也は、扉が空いた途端に廊下に飛び出した。
エレベーターに乗っている間に、息切れは少し収まったようだ。
(――ええと、2階の従業員更衣室ってどこだ?)
このホテルを所有している人間の長男だというのに、達也は更衣室の場所を知らない。
まあ、いくら長男とは言え、達也はこのホテルの客であるという以外は全く関係のない人間だから仕方ないのだが。
達也はあたりをきょろきょろ見渡すと、右側の廊下の方は人が少ないのに気づき、そちらへと歩き始めた。
従業員更衣室なら一般客は利用しないから、人通りが少ないはずだ。達也のこういう時の勘はほぼ当たる。
廊下を右に早足で歩いていくと、どんどん人の気配が少なくなってきた。
やはり、自分の勘は正しかったのだ。そのまま進むと、周りには誰もいなくなってしまった。
さっき「スタッフ以外立ち入り禁止」の張り紙を見たような気がするが、達也は見ない振りをした。
「――西園寺さん!」
遠くから百合の声が聞こえる。
達也はほぼ走っているような状態で再び息が切れそうになっていたが、百合の声を励みにそのまま歩を進めた。
「桜井さん!」
百合の声に続いて西園寺エミの声も聞こえた。
百合の考えた通り、エミは2階の更衣室にいたのだ。
と言うことは、エミの元カレもいるということなのだろうか。
「さっ、西園寺さん」
百合の声が近くなってきた。多分、すぐ前にある、あの角を曲がったところにいるのだろう。
達也は聞こえてきた百合の声に違和感を覚えた。普段の百合の声はもっと張りがあって堂々としている。まるでピアノのドミソの和音のように、はっきりときれいに聞こえるのだ。
しかし、さっきの声は達也にはちょっとした不協和音に聞こえた。長く百合と一緒にいる達也にはわかる。
百合は珍しく緊張して焦っているようだった。
「さっ、西園寺さん、総支配人が呼んでいるから、一緒に行きましょう。今日のことで話があるそうなの」
達也はさっき「あの角を曲がったところにいるだろう」と思った場所まで来ると歩みをぴたりと止めた。
そして、壁からそっと顔をのぞかせて、声のする方向を見てみた。
百合のあの緊張している声からして、自分がいきなり飛び込むような場面ではなさそうだ。
やはり、そこには百合とエミと、あの鋭い気配を自分に送っていたエミの元カレがいた。
周りには他に誰もいない。エミは元カレのすぐそばにいて、元カレはエミの腕を掴んでいる。百合は少し離れた場所から二人と向き合っていた。
達也はエミとエミの元カレの表情にも違和感を覚えた。エミとエミの元カレは明らかに焦って緊張しているような表情をしている。
声に不協和音を感じたとは言え、さすがに百合はいつも通り無表情だ。
達也は作家らしく、もしかすると百合が来る前にエミと元カレの間で何かしらの恋愛に関する修羅場でもあったのだろうかと考えた。
しかし、なぜエミの元カレは、いきなりエミの前に現れたのだろうか。あんなにエミを避けていたのに。
「あっ、えっ……」
エミは戸惑いの表情を見せると、百合と元カレの顔を交互に何度も見た。
百合はゆっくりとエミと元カレの方へ一歩足を踏み出したが、元カレが「動くな!」と大声を出す。
百合は立ち止まるだけでその表情は動じなかった。達也は突然の大声に驚き、息を大きく吸い込んでしまった。
元カレはエミの腕を掴んだまま、着ている上着のポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。
取り出した瞬間、その何かが窓からの光に反射した。達也はまぶしく感じて目を細めた。
次の瞬間、目を見開いた。
元カレが取り出したものはナイフだった。
元カレはエミを自分の方へ引き寄せるとエミの首に自分の腕を回し、エミの首元にナイフを当てた。
エミは「あっ……」と声にならないような悲鳴を上げた。
「落ち着いて!」
さっきよりも百合の声に動揺が感じられる。「よく考えてみて。ここはホテルの中よ。そんなことしてもすぐに誰かに見つかるわ。だから、手を放してナイフを捨てて。西園寺さんをこちらに渡して」
「うるさい! 俺は彼女と一緒に逃げるんだ! やっとわかったんだ、俺はエミのことが本当に好きだって。全部捨てる、今の仕事も何もかも全部捨てて、エミと逃げる」
「いっ、いや、離して……」
エミが身をよじって元カレから離れようとする。その度にエミの白いのど元に当てられているナイフが日の光に反射してギラギラ光った。
「エミ、一緒に行くんだ」
「いっ、いや……」
エミが本気で嫌がっている様子を見て、元カレは目を見開いてエミを見下ろした。
元カレはきっとエミがまだ自分を好いていると思っていたのだろう。しかし、エミの心はもう元カレからは離れて行っているようだ。
達也はエミが楽屋でブローチを捨てた時「話して気持ちが吹っ切れたような気がします」と言っていたのを思い出した。
「エミ……」
元カレが悲しそうな表情を見せる。達也には手に取るように元カレの緊張が緩んだのがわかった。
百合も元カレの緩みを察知したのだろう。あっという間に元カレとエミの元へ駆け寄ると、元カレのナイフを握っている方の手首をつかんだ。
「あっ……」
元カレに再び緊張の表情が現れた。しかし、遅い。百合はエミの身体を思いっきり押すと元カレとエミを離した。
「西園寺さん、逃げて!」
「こいつ!」
愛しい女性と引き離されたのを怒ったのか、もしくはただ単に女性の百合に手首を掴まれたことに怒ったのか。
元カレはお返しのように百合の身体を思いっきり押した。
さすがの百合も男の手加減のない力には抗えないらしい。押された勢いで小さな悲鳴を上げながら床に倒れこむ。
そして、元カレは百合に向かってナイフを振り上げた……。
「――百合!」
達也は夢中になって壁から飛び出した。
普段の達也なら、こんな場面に出くわしたら足がすくんで体が震えて何もできないだろう。
前にエミが男にぶつかった時、エミの身体を支えることはできたが、男の罵声には何も言い返せなかった。
しかし、今の達也はただ「百合を救いたい」その気持ちだけで壁から飛び出した。
そして、元カレと百合の間に飛び出して行った。
「達也!」
百合の声が聞こえる。元カレが突然現れた達也に驚きの表情を見せるも、元カレが持っているナイフは達也に振り下ろされる。
達也は目を閉じた。
達也は体に鋭い痛みを感じた瞬間、気を失った。




