ライブ当日⑤
*
イリーナ・ホテルの2階にある、女子従業員更衣室。
西園寺エミはホテルのフロントの制服に着替えて更衣室を出た。
両手をこすりながら、フロントへの廊下を歩いていく。
緊張しているのか、両手が冷たい。無意識に手をこすってしまう。
今夜はホテルのラウンジ「リリア」でパトリック・エヴァンスのライブがある。
エヴァンスのエスコート役に選ばれたエミは光栄だと思いつつ、緊張と上手くいくかの不安でいっぱいだった。
手をこすりつつ、ふと元カレを思い出してしまった。
元カレを完全にふっきれたかというと、そうではない。しかし、最近は元カレのことはすでに思い出として胸の奥にしまいつつあると感じていた。
(――本当にあの人は何だったんだろうか?)
突然、私に話しかけてきて、散々甘い夢を見させてくれたのに、ある日突然音信不通になり、急にいなくなってしまった。
最後に元カレを見たのは、あのラウンジ「リリア」だった。
女性と一緒にいるのを見て、すべてを悟ってしまった。自分は元カレに捨てられてしまったのだと。元カレには別に好きな人ができてしまったのだと。
フロントスタッフらしくなく、ホテル内で泣いてしまったが、桜井さんと桜井さんの幼馴染の人が話を聞いてくれた。
あの時話を聞いてもらって、かなり心の重いものが取れたような気がする。
(――エヴァンスさんの伴奏をする桜井さんのためにも、今日は頑張らないと)
それにしても、桜井さんはすごい。
あんなに美人でピアノも上手なのに、本業が探偵だなんて。本当に小説か映画の主人公みたいだ。
多分、桜井さんみたいな人は男の人には振られないだろう。振られたとしても、私みたいにくよくよはしない。
(――私も桜井さんみたいな人になりたいな)
エミは顔を上げて心の中で「よしっ」と掛け声を上げると、普段通りのフロントスタッフの表情で廊下を歩き始めた。
その時。
「――エミ!」
後ろから突然声をかけられる。
もう二度と聞かないだろうと思っていた声だ。まさかそんなことはないだろうと思って後ろを振り返ると、そこには元カレが立っていた。
最後に「リリア」で見かけた時と同じ紺のチェックのジャケットを羽織り、手にはホテルに一泊するくらいの小型のボストンバッグを持っている。
エミはその場から動けなくなった。
最初に思ったのは「えっ? どうしてここにいるの?」という単純な疑問だった。
あんなに必死に連絡を取ろうとしても音信不通だったのに、どうして、今ここに元カレがいるのだろうか。
疑問の次にエミの頭の中には、元カレと過ごした日々が蘇ってきた。
しかし、どれもまるでずっと前の思い出のように鮮明ではない。
元カレと一緒にいた時はあんなにも見るものすべてが鮮やかに情熱的に見えていたのに、今はまるで古いフィルムのように影って見える。
元カレに振られたと思った時からそれほど長い時間が経っていないのに、エミの中で元カレはすでに「過去の人」になってしまったようだった。
それでも、エミは元カレに駆け寄りたいような感覚を覚えていた。
例え元カレが過去の人だとしても、体は元カレと過ごした日々のことを覚えていて反応してしまうのだろうか。
驚いたエミは、元カレにどう言葉をかければよいのか戸惑った。
元カレを見た瞬間、すでに自分の中での元カレへの愛情は過去のものだということはわかった。だからと言って元カレの登場が迷惑かというとそういうわけではないようだ。
複雑な心境だった。
元カレはエミの心の揺れを知っているのか知らないのか、エミに近づくとその腕をつかんだ。
「あっ……」
エミは思わず声を上げた。
元カレの腕を掴む力が強かったからではない。元カレが自分に触れた瞬間、心の揺れが元カレへの想いの方へと大きく傾きそうだったからだ。
「突然、あんな風にいなくなってしまって、ごめん。とにかく、ここから逃げよう」
元カレはエミの腕を掴んだまま、歩き出そうとする。
「えっ?」
エミは戸惑った。突然音信不通になったことを謝られたのはわかる。
しかし、「逃げよう」とはどういうことなのだろうか?
「待って、逃げようって……」
エミは慌てて元カレを引き留めた。
「パトリック・エヴァンスのそばに行ってはダメだ! それにあんな男……」
「あんな男?」
ますます意味がわからない。
エミは「どういうこと?」という風に、元カレをすがるような表情で見上げた。
元カレのいう「あんな男」とは自分がこれからエスコートをする、あのパトリック・エヴァンスのことを言っているのだろうか?
「君がブローチを渡した男だよ!」
「ブローチ? ブローチって、あなたがお母さんの形見だと言って私にくれた、あのブローチのこと?」
ブローチは桜井さんの楽屋のごみ箱に捨てたはずだ。
エミは元カレの突然の登場も重なり、パニックになりそうなほど戸惑った。
「そうだ。どうしてあの男にブローチを渡したんだ? あの男が好きなのか? この間、地下鉄までの道を仲良さそうに並んで歩いていたじゃないか。途中で抱きしめられていたし……。
でも、あの男、さっきラウンジのピアニストと抱き合っていたぞ! この間も一緒にホテルのエレベーターに乗っていたし」
「えっ? ラウンジ?」
エミは混乱する頭の中で、この間の自分の行動を思い出した。
そう言えば、パトリック・エヴァンスのライブの打ち合わせの帰り、桜井さんの幼馴染の人と帰り道が一緒になった。
あの時、男にぶつかった自分を幼馴染の人が支えてくれた。
まさか、元カレは自分と桜井さんの幼馴染が付き合っていると勘違いしているのだろうか?
ブローチはもしかすると桜井さんの幼馴染の人が、「思い出の品を捨てるなんてできない」と取っておいてくれていたのかもしれない。
しかし、自分は元カレが思っているように、桜井さんの幼馴染の人と付き合ってなんていない。
完全な誤解だ。
「あんな男に君は渡せない。やっぱりエミのことが好きなんだ。やりなおそう。だから、ここから逃げよう」
突然愛の告白をされても、エミには戸惑いしか浮かばなかった。
しかし、元カレは前を向くとエミの腕を強引に引っ張ってここから立ち去ろうと促してくる。
エミは慌てて「待って!」と元カレを止めた。
「待って! そんなこと急に言われても。私、これから大切な仕事があるのに。それに、どうして逃げなくてはいけないの?」
元カレがエミの方を振り返る。
元カレの表情はエミが今まで見たことがないほど、緊張に溢れていた。
エミは元カレの表情を見て、声を上げそうになった。こんな表情の元カレ、見たことがない。
「ラウンジ『リリア』に爆発物が仕掛けられるんだ」
「バクハツブツ……?」
エミが初めて聞く言葉を復唱したかのように呟く。エミの声に重なるように、背後から女性の声が聞こえて来た。
「――西園寺さん!」




