ライブ当日④
「達也、どうしたの?」
立ち止まった達也に気付いたらしく、百合も振り返りながら小声で訊いて来る。
達也は「振り返ってはダメ!」と慌てて首を横に振る。
百合は達也の意図を察したのか、何でもない表情のまま正面を向くと、そのままゆっくりと歩き始めた。
もしかすると、百合は達也が立ち止まった時点でエミの元カレが来たとわかったのかもしれない。
達也も歩き始め、息が切れつつ何とか百合に追いつき、彼女の耳元に小声で言った。
「あの、男が、いるんだ」
百合は達也の肩越しにそっと後ろを覗き込むと、「やっぱり」と呟いた。
「やっぱり?」
やはり、あの男はエミのブローチについている発信機を頼りについてきているの?
達也はそう言おうとしたが、息が弾んで最初の言葉しか発することができなかった。
「そう。でも、今はとりあえず、何もなかった振りして、また私について来て」
百合は再び本当に何もなかったように、早足で歩き始めた。
「えっ? 待って……」
まだ息が切れているのに。
達也は自分の体力のなさにあきれながら、無意識のうちに手を伸ばし百合の腕を掴んだ。
「何?」
腕を掴まれた百合が振り返る。その表情は普段の百合には珍しく、少し慌てているように見えた。
まさか、一応は異性の自分にいきなり腕を掴まれてびっくりしたからだろうか、と達也は思ったがそうとは限らない。
それでも、百合が自分に異性を感じてくれたかもしれないと考えると、達也は仄かにうれしい気持ちになった。
自分でも今の状況でよくそんな気持ちになれるな、と思うが。
「ちょっと、待って、息が切れて……」
達也は百合の腕を掴んだまま、彼女の方によろめいてしまった。
こういう時の百合は優しい。百合はよろめいた達也をまるで女神の慈悲のように抱き留めてくれた。
同い年の女性の足の速さに追いつこうとして息を切らし、よろめいてしまうなんて。
達也は自分の情けなさに絶望するしかなかった。
それでも、よろめいたせいとは言え、百合にこんなにも密着できたのは正直うれしかった。
普段はクールで平均体温も低いのではないか、と思ってしまう百合だが、その身体は意外にも温かくとても柔らかかった。
そして、ふんわりとよい匂いがする。
達也はしばし、百合に身体を預けていたが、自分たちの周りを通り過ぎていく人の視線に気づき、慌てて百合から身体を離した。
事情を知らない人から見たら、男女のラブシーンのように思われたのかもしれない。
幸い、さっきまでの息切れはかなり収まったが、胸の鼓動がまだ収まらない。
まるで小学生が初恋の女の子の前に出て、恥ずかしさのあまり何も言えないような状況だ。
正直、達也と百合の関係は小学校からほぼ変わっていない。達也の百合に対する精神年齢もあまり変わっていないような気がする。
「本当に、相変わらず体力がないんだから」
達也が百合から離れると、百合は普段通りの無表情で言い放った。
百合は「あれくらい歩いただけで何をよろけるのだろう」と思っているのだろう。達也は自分の体力さえも小学校の頃から変わっていないのだろう、と感じた。
百合の後をついて行くと、百合との距離が縮まらないのは小学校の頃から変わらない。
百合はどんどん先を行くが、達也はいつも置いてきぼり。それでも百合は優しく、時々歩みを遅くしてくれる。
しかし、今日は達也の体力が先に限界に来てしまったのだ。
「ごめん、もう大丈夫だから」
達也がいつも通りに戻った口調で言うと、百合が「あっ……」と声を上げた。
「どうしたの?」
「あの男がいなくなっている」
達也が振り返ると、百合の言う通りエミの元カレの姿がどこにもない。
「百合がわざとブローチを持って歩いていることがバレたとか!?」
「まさか、あの状況を見てそう思う人はいないと思うけど」
確かに女性が男性を抱き留めている姿を見て、発信機がどうのこうのと思う人はいない。
百合は少し考えるように目を伏せたが、すぐに「あっ……」とまた声を上げ、大きく目を見開いた。
この表情。
百合と長く一緒にいる達也にはわかる。
この目を大きく目を見開いた表情は、クールな百合が感情を抑えきれない時にする表情だ。
たいていは驚いた時か焦った時に見せる。
「どうしたの? 百合?」
達也は百合の表情にただ事ではない「何か」を感じた。
「まさか、あの男、西園寺さんのところへ行こうとしたんじゃあ……」
「何で? あの男、明らかに西園寺さんを避けてたのに」
「多分、西園寺さん、2階の更衣室に……」
百合はそう言いながら、まるで達也がいないかのような素早さでその場から走り始めた。
「えっ? ちょっと待って、百合……」
達也は慌てて百合を追いかけようとしたが、まだ完全に息切れが収まっていなかったのだろう。
百合との距離はどんどん離れて行ってしまう。
とうとう、百合の姿は見えなくなってしまった。
(――百合、2階の更衣室って言ってたよな?)
達也はやっとのことでエレベーターまでたどり着くと、「2」のボタンを押した。




