ライブ当日③
数分すると百合は再び達也の前に現れた。
仕事でいつも着ているような、白いブラウスに黒いテーパードパンツのオフィスカジュアルな姿をしていた。
達也は「あの緑色のドレスのままで良かったのに」と残念に思った。シンプルな服を着ている百合もきれいだが、さっきの豪華なドレス姿は格別だ。
そんな達也の心中は知らないだろう。百合はドレス姿の時と変わらない、いつも通りの無表情のままだった。
「私が西園寺さんのブローチを預かって以来、あの男の気配はないでしょ?」
百合の問いかけに、達也はハッとした。確かに百合の言う通りだ。
エミのカメオのブローチから発信機が見つかった日、百合は「このブローチ、私が預かっておくから」と、達也の上着のポケットからブローチを取り上げていた。
その日以来、達也は1、2回はこのラウンジ「リリア」に足を運んでいる。残念ながら百合がピアノを演奏している場面には遭遇しなかったが、鋭い気配を放つエミの元カレとも遭遇していなかった。
「確かにそうだけど」
やはり、あの男はブローチの裏につけられた発信機を頼りに自分をつけてきたのだろう。
達也は自分の住んでいるマンションもエミの元カレに特定されてしまったのかと身構えた。
まあ、特定されたところで日本有数のセキュリティーを誇る高層マンションだから、突撃されることはないだろう。
「そうでしょうね。あのブローチ、このホテル従業員の女子更衣室にずっとしまっておいたから」
百合がクラブフロアで先にエレベーターで去って行った時、達也はなぜ百合が2階へ行ったのかを不思議に思った。
どうも百合は2階にあるホテル従業員の更衣室へ行ったらしい。
しかし、なぜ更衣室にずっとあのブローチをしまっておいたのだろうか。
「ブローチを女子更衣室に? 何で?」
「そこに置いておけば、攪乱させられると思ったから」
百合は言いながら、テーパードパンツのポケットに手を突っ込んで、中から例のカメオのブローチを取り出した。
「攪乱って何を? で、どうしてしまっておいたブローチを、また持ち出したの?」
「その内わかるから」
百合はそれだけ言うと、達也の前を歩き始めた。
百合は黙ってホテル内の廊下をどんどん歩いて行く。
早足の百合についていくだけで、達也は一苦労だ。一定の距離を保ったまま、百合との距離が縮まらない。
(――百合、一体どこへ行こうとしているんだ?)
しばらくして、達也はもしかすると百合は目的もなくホテル内を縦横無尽に歩いているのではないかと思い始めた。
イリーナ・ホテルのメインロビーには毎月有名な華道家が生け花を生けているが、もう三回ぐらいはその見事な作品を見ている。
「ねえ、百合」
達也は前を歩いている百合に、少し切れ切れな声で話しかけた。「一体、どこに行こうとしているの?」
「別に、どこってわけじゃないけど」
やっぱり、と達也は心の中で呟いた。
「じゃあ、どうしてこんなにホテル内を歩き回っているの?」
「その内わかるから」
またそれか。
しかし、いい加減、達也の体力は限界に近かった。
百合は顔を前に向けているから、どんな表情をしているのかはわからない。
まあ、いつもと同じ無表情で、全く疲れていないということは足取りからもわかる。
ピアノのために探偵業のために、百合が日常的に身体を鍛えているのを達也は知っている。
運動が全くできない達也に比べ、昔から百合はピアノだけでなく勉強も運動も何でもできる人間だった。
(――でも、ちょっとだけでも良いから休みたいんだけど)
達也が「もう限界が近い……」と思い始めた時、達也の歩みが自然と止まった。
別にもう一歩も動けないほど疲れた、というわけではない。
(――この感じ)
前にもこんな鋭い気配を感じたような気がする。
達也は後ろを振り返った。
達也が振り返った瞬間、一人の男が顔を背けたような気がした。
あの男、西園寺エミの元カレだ。
もしかすると、エミが泣いていた日と同じものなのだろうか。紺のチェックのジャケットを羽織っている。
手にはこれからホテルに一泊するのかのような、小型のボストンバッグをぶら下げていた。




