ライブ当日②
達也は歩調を速めて、ホテルの前にいる人々の波を潜り抜けた。
中に入ってしまえば、そこにはいつも通りの穏やかなイリーナ・ホテルの日常が広がっている。
さすがに普段よりも警備員の数は多い。
違うところと言えば、今日のラウンジ「リリア」は臨時休業していて、夜のライブ準備をしているということだけだった。
しかし、百合からは「『リリア』に入ってきてもいいから」と言われている。
達也が入り口の警備員に事情を話して「リリア」の中へ入ると、ラウンジの奥にはアンプやドラムセットが置かれてあった。
見たところ人はいないが、グランドピアノからはピアノの音が聞こえてくる。
一週間前にクラブフロアのバーで聴いたのと同じ、テクラ・バダジェフスカの「乙女の祈り」。
この演奏は百合だろう。本番に向けて軽い手慣らしでもしているのだろうが、手慣らしにしておくにはもったいないくらいの演奏だ。
まるで、音楽の女神が舞い降りて、下界の人々に慈悲を与えるために演奏しているかのようだった。
達也は百合の「乙女の祈り」を聴いて、また西園寺エミを思い出した。
やはりこの曲、エミの雰囲気にどことなく似ているような気がする。
エミとこの「リリア」で会った時、エミはこの曲の乙女のように彼氏が自分を裏切っていないことを祈りながら「リリア」へやって来たのだろう。
百合がまた同じ「乙女の祈り」を弾いているということは、百合も同じことを思っているのだろうか。
そう考えると、百合はやはりエミの彼氏がなぜ突然音信不通になってしまったか、その理由がわかったのかもしれない。
達也がグランドピアノに近づいてみると、百合は普段演奏時に着ているシンプルな黒いドレス姿ではなかった。上半身にキラキラとしたラインストーンがたくさんついた、濃い緑色のドレスを着ている。
ドレスは柔らかいシフォンのような素材でできており、ひと目見ただけで明らかに上質な布を使っているのがわかった。
百合がいつも着ている黒いドレスだって、母親の葵が「地味だから」と着なくなったのを譲り受けたものだ。それなりに高級なものではあるが、百合が今着ている緑色のドレスは明らかに数段上質なものだ。
誰が選んだドレスかわからないが、百合にとても似合っている。
達也が百合の姿に見惚れていると、百合が達也に気付いてピアノの手を止めた。
「何しているの? そんなところに突っ立って」
達也は百合と目が合い、自分の顔が仄かに火照って来るのを感じた。
達也は百合と初めて会った時のことを思い出す。
達也の誕生日パーティーでピアノを弾いた百合にすっかり心を奪われて、今の自分のような状態になってしまった。
あの時、自分は小学生だったが、その頃から精神年齢が変わっていないのではないかと思ってしまう。
「えっ? その……。そのドレス、どうしたのかなって思って。葵さんの?」
さすがに百合に対して「見とれていた」とはストレートには言えない。
小説の中ならいくらでも百合の美しさを表現できるが、実世界は違う。恋人同士でもない、幼馴染もしくは同僚の関係の女性に「見とれていた」と言えるほどの勇気を達也は持ち合わせていなかった。
だから、百合との関係はずっと幼馴染や同僚から変化がないのだろう。
「ううん。このドレスはエヴァンスさんが用意してくれたの。本番前に一回着て弾いておこうかなって思って」
そう言えば、パトリック・エヴァンスのライブ写真で緑色のエレキギターを持っているのを見たことあるな、と達也は思い出した。
百合のドレスの色は、その緑色のエレキギターと同じ色だった。
「じゃあ、これからリハーサル?」
「ううん、リハーサルはまだ。――とりあえず、一回着て弾いてみたし、感じはつかんだから着替えて来る」
「着替えるの?」
本番までそのまま着ていれば良いのに、と達也は思った。
それくらい、その緑色のドレスは百合に似合っていたし、百合の美しさを存分に引き立てていた。
「当たり前じゃない。まだライブまで何時間もあるのよ。汚したら悪いし、これからひと仕事しなくちゃいけないし」
「ひと仕事?」
「そう、ひと仕事」
百合はそう言うと、達也に背中を向けてラウンジの奥へと消えて行った。




