ライブ当日①
一週間後のお昼過ぎ。達也は自分の部屋の鏡の前でネクタイを締めていた。
これからラウンジ「リリア」で行われるパトリック・エヴァンスのライブに行くのだ。
ライブはディナーショー形式。普段のラウンジ「リリア」よりもドレスコードが厳しくなっている。
達也は自分の持っているスーツの中でもフォーマルなものを選んで袖を通した。見た目は様になるが、決してリラックスしていられるような着心地ではない。
プライベートなのにこのスーツにネクタイなんて、今日は一日窮屈な思いをしてしまいそうだ。
基本、達也はスーツにネクタイみたいな、きっちりした服装をするのが苦手だった。
栄一の探偵事務所で働く時は、バイトとは言えお客様の前に出る時はネクタイを締める。そうではない時も一応はジャケットを羽織っていた。俗にいう、オフィスカジュアルの格好だ。
普段も気軽にイリーナ・ホテルに入れるように上着を羽織ってはいるが、仕事と普段ではジャケットを使い分けている。
普段好んで来ているのは、達也が気に入っている柔らかい着心地のジャケットだった。百合にも指摘された、西園寺エミが捨てようとしたブローチを入れっぱなしにしている上着だ。
ただ、仕事でお客様の前に出るには少しカジュアルかもしれないと、出勤する時は避けていた。
達也はぎこちないしぐさでネクタイを締めながら、やはり自分はネクタイが苦手だと痛感していた。
まあ、今回は素晴らしい音楽が聴けるのだから、ネクタイもスーツも仕方ない。ネクタイを十本くらいつけても、今日のパトリック・エヴァンスのライブを見たい人は日本中にたくさんいるだろう。
達也は百合の計らいで特別にライブ会場に入れるが、このライブの一般発売分のチケットは超高額にかかわらず数秒でソールドアウトしたらしい。
ネクタイを締め終わった達也はジャケットを羽織りながら、一週間前に百合が言っていた言葉を思い出した。
――また、一週間後のエヴァンスさんのライブで。
百合の言葉通り、確かに彼女に会うのは一週間ぶりだった。
週末をはさんでいたし、達也は執筆活動とそれに伴う取材等の予定があり、栄一の事務所を休んでいた。
もしかすると、百合は本当に言葉の意味通りに「達也と会うのは一週間後のエヴァンスさんのライブで」と言ったのかもしれない。
しかし、達也にはあの言葉が他の意味を含んでいるとしか思えなかった。例えば、パトリック・エヴァンスのライブで何かあるとか……。
(――まさか、あの襲撃予告が実際に起こるとか?)
達也は身震いを覚えた。
いや、そうとは限らない。達也は自分の思考を忘れようと首を横に振り、頭を冷やすかのように窓辺へ行った。
高層マンション30階の自室の窓からは、イリーナ・ホテルが見下ろせる。
達也は窓からイリーナ・ホテルの屋上にあるヘリポートをじっと見つめた。
パトリック・エヴァンスのライブが始まる時間より早く、達也はイリーナ・ホテルに到着した。
理由は知らないが、百合に「今日は早く来て」と言われたのだ。
エヴァンスはプライベートジェットで昨日到着。そのままイリーナ・ホテルの最上階のスイートルームに宿泊しているらしい。
予想していたが、ホテルの前には警備員とマスコミ、観客なのかエヴァンスのファンなのかホテル客なのかよくわからない人々がたくさんいた。
イリーナ・ホテルは世界中の要人から愛されているホテルで、各国の著名人が宿泊することも珍しくない。警備は慣れたものなのだろうが、さすがにホテルのラウンジで大物ミュージシャンがライブするのは初めてだ。
しかも、「エヴァンスを襲撃する」という脅迫が来ているし、ライブ会場であるラウンジ「リリア」では盗聴器が2つも見つかっている。
そのせいか、今日のイリーナ・ホテルには、普段はない緊張感が漂っている。
緊張感がそうさせるのか、ホテルに入ろうとした達也は軽いめまいを覚えた。
達也は小さい頃から、人がたくさんいるところが苦手だ。誰かと遊んだりスポーツをしたりするよりも、一人で本を読んだり空想したりする方が好きだった。
しかし、ずっと一人でいるのも苦手だった。
一人ぼっちで長い時間を過ごしていると、世の中や人々から置いてきぼりにされたような気持ちになってくる。
だから、イリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」は好きだった。
広い室内にゆったりとした間隔で置かれているテーブルとイス。
客層は穏やかで、誰かの邪魔をしようとする人間はいない。
かと言って、周りの人と完全に遮断されているというわけではない。
大きな窓からは、穏やかな陽の光が暖かく差し込む。
そして、百合の美しいピアノの旋律が響く。
達也が足しげくラウンジ「リリア」を訪れるには理由があるのだ。




