鋭い気配⑨
百合は普段、イリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」のピアニストだが、時々このバーでもピアノを弾くのは達也も知っていた。
だが、達也は意外にもこのバーに入るのは初めてだった。
いくらこのホテルを傘下にしている人物の息子とは言え、達也は百合のようにどこにでも入れるマルチなカードキーは持っていない。
ラウンジ「リリア」はよく利用するが、クラブフロアはほぼ入ったことがなかった。
バーはラウンジ「リリア」より面積は狭いが、ゆったりと過ごせる広さは保っている。照明は暗めで、大きな窓から見える東京の夜景がまるで宝石箱を開けた時のように輝いていた。
店内はオーソドックスなバーだが、置かれている革張りのイスやソファが高級なのはわかる。
さりげなくカウンターの隅に置かれているカクテルグラスもよく磨かれていて、まるで水晶のように美しい。
バーの片隅にはラウンジ「リリア」よりも小さいグランドピアノが、まるで弾いてくれる人を待っているかのようにひっそりとたたずんでいる。
バーのマスターらしき初老の男性が、百合を見るなり親しそうな笑顔を見せた。
百合はマスターの方へまっすぐ歩いて行った。
「こんばんは。ピアノ、弾いてもいいですか?」
「えっ?」
マスターは驚いたように目を見開いた。「ええ、桜井さんがお弾きになるならいつでも大歓迎ですが。でも、今日は出番ではないですよね? 良いんですか?」
「はい、ちょっと考えをまとめたいんです」
なるほど、と達也は思った。百合はどうしてエミの元カレがまだエミを好きなのに振ったのか、その答えを考えたかったのだ。
百合は考えをまとめる時、よくピアノを弾く。
百合はピアノの元へ静かに歩み寄ると、そっと鍵盤のふたを開けた。
バーの客人はまばらだった。それでも、仕事帰りのようにシンプルな服装の美しい女性がピアノに歩み寄ったのを見て、「何だろう?」と注目し始めている。
達也は百合の演奏を聴こうと、カウンターのすみのイスに座った。
「桜井さんのお友だちですか?」
マスターが達也に声をかけてきた。
「あっ、はい、同僚みたいなものです」
達也は少し迷ったが、当たり障りのない説明をした。
「そうですか」
マスターは微笑み、それ以上は詮索しなかった。
百合はピアノの前のイスに座ると、鍵盤に両手を置いた。そして、ピアノを弾き始めた。
最初の音が鳴った瞬間、達也だけでなくバー中の人間が百合の姿にくぎ付けになっていた。
可憐な旋律で奏でられる、テクラ・バダジェフスカの「乙女の祈り」。
まるで、百合の周りだけ、スポットライトが当たっているかのように華やかで美しい。
音楽の女神が舞い降りているかのようだった。
達也は百合の「乙女の祈り」を聞いている内に、エミを思い出した。
この曲はエミの雰囲気にどことなく似ている気がする。天使のようにかわいらしいエミは、まさに「乙女」のイメージだ。
達也がエミと初めて会った時。エミはこの曲の乙女のように、彼氏が自分を裏切っていないことを祈りながらラウンジ「リリア」へやって来たのだろう。
そう考えると、有名な「乙女の祈り」も、また違う意味合いを持った曲のように思えて来る。
百合が「乙女の祈り」を弾き終わると、バー中から大きな拍手が聞こえてきた。
バーのマスターも嬉しそうに拍手している。達也も思わず手を叩いた。
百合はどこかの王族のように優雅なお辞儀をすると、達也の元へ行き「帰ろう」と目で合図をして、そのままバーを出て行った。
達也は来た時と同じように、あわてて百合の後を追った。
百合のあの様子だと、考えはまとまったのだろう。
「百合、何かわかったの?」
達也はエレベーターのところでやっと百合に追いついた。百合は達也を待っていてくれたらしく、エレベーターのボタンはどこも押されていない。
「わかったけど……」
やはり、百合はピアノを弾いている間に考えをまとめたのだ。エミの元カレの不可思議な行動の理由がわかったのだろう。
しかし、百合は普段の無表情とは言え、何かしら影のようなものを落としている雰囲気を漂わせていた。
普通の推理小説の探偵なら、真相がわかってすっきりとした表情を見せるところだろう。
もしかすると、ただ事ではないのだろうか。
「えっ? 何かまずいことでもあるの?」
「かなり大ごとになるかもしれない」
「大ごと?」
達也が驚いて大きな声を出すと、百合は人差し指を唇に当てて、周りをきょろきょろ見渡した。
百合の態度はまるで「今話していることを誰かに聞かれたらまずい」とでも思っているような感じだった。
(――でも、どうして?)
達也は不思議だった。確かにエミの失恋は悲しい出来事だ。しかし、ここまで人目を気にすることではない。
百合は達也の着ている上着のポケットに手を突っ込むと、エミのブローチを取り出した。そして、エレベーターのボタンを押した。
「このブローチ、私が預かっておくから。あと、達也は次のエレベーターで帰って。まっすぐ自分の部屋へ帰って」
「えっ? 何で? それに何がわかったの?」
「また、一週間後のエヴァンスさんのライブで。じゃあ」
「確かに僕もライブに行く予定だけど……」
達也が言いかけていると、百合はやってきたエレベーターに一人で乗り、扉を閉めた。
百合を乗せたエレベーターは、機械的な響きを立てながら動き出した。
達也は小さなため息をついた。
百合を食事に誘えなかっただけでなく、百合が何をわかったのかも聞き出すことができなかった。
達也が名残惜しそうに顔を上げてエレベーターの階数表示板を見ると、百合は2階へ行ったらしい。
2階?
達也には「まっすぐ自分の部屋へ帰って」と言った割には、百合はなぜか2階に立ち寄るらしい。
イリーナ・ホテルの2階には会員制のフィットネスジムとプール、そしてホテル従業員のロッカールームや社員食堂があった気がする。
百合はいつもラウンジ「リリア」に併設している楽屋を使っているから、ロッカールームは使わない。
このクラブフロアに来るときも、百合は着替えやノートパソコンに入ったカバンを持ってきたはずだ。
達也は少しの間、階数表示板を見ながらどうして百合が2階へ行ったのかを考えたが、自分の頭では答えが出なかった。
達也は百合に言われた通り、大人しくまっすぐ家に帰ろうとエレベーターの下へ行くボタンを押した。
――また、一週間後のエヴァンスさんのライブで。
百合はそう言っていた。もしかするとパトリック・エヴァンスのライブで何かがあるのだろうか。
達也はやってきたエレベーターに乗り込むと、百合の言いつけ通りまっすぐ自分の部屋がある高層マンションへと帰っていった。




