鋭い気配⑦
「ねえ、百合」
達也が百合の後ろを歩きながら言った。百合は歩くのが早い。達也は坊ちゃんらしいのんびりした性格のせいか、歩くのもゆっくりだった。
必然的に百合が達也の前を行くか、達也が無理に歩調を速めて百合の隣を歩くかのどちらかだ。達也は体力もあまりないので、大概は百合が前を歩き、達也が少し後ろを歩いていた。
「何?」
百合は歩調を緩めもしないし、後ろを振り返りもしない。
今、達也と百合は楽屋から歩いて、イリーナ・ホテルのロビーまでたどり着いたところだった。
観光帰りなのか、日本人だけでなく外国人の姿もちらほら見える。人種は様々だが、どの人も世界的に有名なイリーナ・ホテルの利用者らしく、どことなく上品な雰囲気を漂わせていた。
「仕事、何時くらいに終わるの?」
「さあ? 調べものがどれくらいかかるかわからないから、わからない」
「僕、仕事が終わるまで待っているから……」
仕事が終わったら、一緒に食事にでも行かない?
達也はそう言おうとした。しかし、言葉が続かなかった。
(――あっ)
達也は歩きながら、自分の横にあるホテルの大きなガラス張りの窓に視線を移した。
外はすっかり暗くなっている。窓はまるで鏡のように達也や百合の姿を写している。
達也は百合と自分の姿を窓で確認し、その後ろに目をやった。
(――やっぱり)
あの男だ。
昨日、鋭い気配で達也の後をつけてきたあの男だ。あの男が達也の後ろを歩いている姿が、窓ガラスに写っている。
さっき、覚えのある気配を感じたと思った。昨日のあの鋭い気配だったのだ。
「達也、どうしたの?」
百合が後ろの達也の異変に気付いたのか、歩調を緩めて後ろを振り返ろうとした。
達也は慌てて首を横に振り「そのままでいて!」と合図を送った。
百合はこういう時、察しが良い。百合は前を向き、達也が追いつきやすいようにゆっくりと歩き始めた。
達也は百合に追いつき、百合の耳元に小声で言った。
「後ろ、さっき話した男がいる。窓ガラスに写っている」
百合が黒い瞳を動かし、視線を窓ガラスに移した。
こういう緊迫した状況だというのに、達也は横を歩く百合の美しさに思わず見とれてしまった。昔から文学作品で散々言われているが、男とは愚かな生き物なのだ。間近で見る百合の美しさには、また別の良さがある。
百合は男の姿を確認すると、驚いたように小さく「あっ」と声を上げた。
いつも冷静な百合が驚きで声を上げることは珍しい。それなのに達也は演奏用に少し濃い口紅が塗られた百合の唇に、ただ目を奪われていた。
「あの男……」
達也は百合のこの言葉にやっと我に返った。百合のこの口ぶり、明らかにあの男を知っているような感じだった。
「あの男、知っているの?」
「うん、西園寺さんの元カレ」
「えっ?!」
今度は達也が驚きの声を上げる番だった。百合は「声が大きい!」と言わんばかりに達也をにらんだ。達也は百合の注意になるべく平静を装うようにした。
「本当にあの男、西園寺さんの元カレなの?」
「うん、間違いない。あの男、確かに西園寺さんが泣いていた日に『リリア』にいた」
記憶力が並外れて良い百合が言うなら間違いないだろう。
達也は無意識に上着のポケットに手を突っ込んだ。エミのことを言われ、エミが捨てようとしたブローチを反射的に思い出したのだ。
上着の中にはまだエミのブローチが入っている。
「達也、まだ西園寺さんのブローチ持っているの?」
達也のしぐさを見て、百合は達也のポケットにエミのブローチが入っていることを悟ったらしい。やはりさすがの洞察力だ。
「うん。本当は返したいと思っているんだけど、さすがにすぐには返せなくて」
「なるほどね」
百合はいきなり自然なしぐさで隣に歩いている達也の腕をつかんだ。
達也は驚いたが、百合は何事もなかったかのように達也の腕をつかみながら、フロントの横にあるエレベーターへと歩いていく。
達也は抵抗するわけでもなく、そのまま百合とはた目から見れば腕を組んでいる恋人同士のような状態で歩き続けた。
百合がエレベーターの上のボタンを押すと、少ししてエレベーターの扉が開いた。
達也が百合に腕をつかまれたままエレベーターに乗り込むと、扉は静かな音を立ててしまった。
「百合、もしかして、あの男をまいたの?」
エレベーターの中は百合と二人きりだ。もう何を聞いてもよいだろう、と思い達也は声を出した。
百合は小さくうなずくと、達也の腕からスルリと手を離した。
さっき、百合に突然腕をつかまれた時はただ驚いたが、百合の手が外れると名残惜しい。
百合はカバンからイリーナ・ホテルのものらしいカードキーを取り出し、エレベーターの認証リーダーにかざした。
百合が階ボタンを押すと、エレベーターは静かに動き出す。
百合は達也に向き直り、達也の上着のポケットに手を入れた。ポケット中からエミのブローチを取り出す。
「達也、あの西園寺さんの元カレって、達也がその上着を着ている時、つまり達也がブローチを持ち歩いている時にしかついて来ないんじゃない?」
「えっ? ええと……」
達也は百合より記憶力がない頭で、一生懸命過去のことを思い出そうとした。
百合はどうして上着のことなんて聞いて来るのだろうか。
今着ている上着は、達也の最近のお気に入りだ。だが、仕事で着ていくにはカジュアルな気がして、もっぱらイリーナ・ホテルへ行くときに着ている。
イリーナ・ホテルは高級ホテルだからドレスコードはあるが、仕事に行くようなきちんとしたスーツでなくてもよい。
達也が記憶をたどっていくと、確かに百合の言う通りだった。エミの元カレはブローチを入れっぱなしにしているこの上着を着ている時しか見ていないような気がする。
もちろん、知らないうちにつけられている可能性はあるが、あれほど鋭い気配を送られたら、自分なら気づきそうなものだ。




