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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第一章 乙女の祈り
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鋭い気配⑥

 翌日は金曜日だった。


 金曜日の夜、百合はだいたいイリーナ・ホテルで副業のピアニストをしている。達也は栄一の事務所でのアルバイトが終わった後、百合にスマホで「演奏の後に話したいことがある」と連絡した。


 百合から了承の返事をもらうと、達也は夜、イリーナ・ホテルへと向かった。


 百合のピアノの演奏が終わると、達也は楽屋のドアをノックした。


 百合はすでに演奏用のドレスを着替えていた。探偵事務所で仕事している時のオフィスカジュアルの服装になっている。


「今日はどうしたの? 『演奏の後に話したいことがある』って。別に事務所かスマホでもいいじゃない」


 百合が演奏用のドレスを畳みながら言う。


 百合は相変わらずクールだ。確かに百合の言う通り直接会って話すような内容ではないかもしれない。直接話すにしても、事務所でちょっと時間をもらってでもよさそうだ。


 しかし、達也は百合に仕事抜きで直接会いたいのだ。特にピアノ演奏後の百合は職場で会う時とは違って、(ほの)かな色気を感じる。自分はそんな百合に会いたいのだ。


 あの感情を滅多に表さない百合が感情を込めてピアノを弾くと、どうしてもその後の彼女にも感情的な何かが残るようだった。


「いや、その、気になることがあって」


「まさか、不審な人物を見たとか?」


「うん、その、パトリック・エヴァンスとはあまり関係ないとは思うんだけど……」


 達也は偶然百合とエミに会った時に自分の後をつけてきた男のことを話した。


 百合は探偵事務所の依頼人が話すのを聞くように、注意深く達也の言葉に耳を傾けていた。


「その男って、達也が巷で話題の覆面作家だと気づいて追ってきている記者か何かじゃないの? それか、達也の実家のことを知って……」


 百合も達也と同じことを考えたらしい。これは探偵だろうと素人だろうと最初は同じことを考えるだろう。


 やはり、覆面作家か財閥の長男かどちらかを嗅ぎつけた記者なのか?


「うん、僕も小説関係か父親関係か、もしくは気のせいかもと思った。でも、二回目に追ってきた時、明らかに僕をすごい表情でにらんできたんだ。


 記者がそんな表情でにらむのかな? それに、雰囲気があんまり記者っぽくなかったような気がする」


 どこが記者っぽくないのか? と訊かれても達也には明確に答えられない。


 ただ、達也は職業柄出版社によく立ち寄る。そこで働いている人とあの男とでは雰囲気が違うことはわかった。


 達也の言葉を聞いて、百合は黙って何かを考え始めた。


 達也は自分でも自負しているほど勘が鋭い。百合もそのことはよく知っている。達也が「記者っぽくない」ということは、百合もあの男は記者ではないと思っているのだろうか。


「にらんでいるってことは、達也に何か恨みのある人間なのかな?」


「そうも思ったけど、小説関係でも父親関係でも他の部分でも思い当たることがありすぎて……」


「他の部分?」


 百合に突っ込まれて達也は慌てた。


 まさか、百合を狙っている誰かが百合と親しい自分に嫉妬して、なんて言えない。


「まあ、ほら、いろいろと。事務所のライバル会社とか」


 達也は何とか取り繕った。百合は「達也を追っている男の正体」について真剣に考え始めたらしく、無言になった。


「達也、その男の人ってどんな人? 写真撮ってないよね?」


 少し経ってから、百合が口を開いた。


「撮ってないよ。ちなみに男は色白で、年齢は僕たちより年上だと思う。髪は短い方だったかな? 背は僕より低かったよ」


 達也は言いながら、そんな男なんて東京を歩いていたらいくらでも会うだろうと思っていた。


 つまり、男には何も特徴がないのだ。達也より年齢が高い男はこの世にはいくらでもいるし、背が低い男も同じだ。顔も平凡でよく覚えていない。


 達也が百合に「特徴が何もなくてあとは思い出せない」というと、百合はため息を吐いた。


「それはただ単に達也が男のことを観察していないだけ。小説だとあんな詳細な描写をしているのに」


 けなしたような言葉を言いながら、さりげなく自分の小説をほめてくれているのだろうか。


 達也は何か胸の奥がくすぐったくなるような気持ちになった。百合は達也が文学界にデビューしてから、柏木林太郎の新刊を必ず読んでくれている。


「とりあえず、次にその男を見かけて写真が撮れそうなら撮ってみる」


「そうね。達也が気になるなんて、もしかすると何かあるかもしれないし」


 百合はすっかり荷物を積み終えたカバンを手に持った。「私、これから事務所に行くから。ちょっと調べたいことがあるの」


「えっ? 今から?」


 達也は必要以上に驚きの声を上げてしまった。


 達也は百合にこれからの予定を聞いて、食事にでも誘おうと思っていたのだ。


 達也だって百合とどうにか恋仲になりたいと考えている。しかし、いつも「ピアノ」「仕事」と言われてするりと交わされてしまう。


 お互いが大学生の時はここまで頻繁に会うことがなく、誘うことすらできなかった。百合は名門の音大の学生だった。達也よりもピアノの課題や練習で遥かに忙しい。


 同じ栄一の探偵事務所に働くようになり、やっと自由に百合を誘えると思っていたら、相変わらず百合は忙しい。


 探偵業とピアニスト業をせわしなく行き来し、プライベートで会う時間さえないありさまだった。


「何でそんなに驚くの?」


 自分が百合を誘う前に断られてしまうなんて、と必要以上に驚いた達也を百合はまじまじと見つめていた。


「いや、こんな時間から仕事なんてすごいなと思って。あと一週間もすると、パトリック・エヴァンスの『リリア』でのライブもあるのに」


「別にすごくないけど。今日、ピアノの出番があったから仕事の途中で抜けてきただけ。エヴァンスさんのライブがあるからって、事務所の仕事の手を抜くわけにはいかないもの」


 百合はさっさとカバンを抱えたまま、楽屋の扉へと歩き始めた。達也は慌てて百合の後を追った。

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