鋭い気配⑤
「そうなんです。大役を任されてしまって。とても名誉なことなんですけど、本番を考えると、今から緊張してしまいます」
達也とエミの話題は自然とパトリック・エヴァンスのライブの話になった。
エミは彼氏に振られたことはもう吹っ切れているのか、この間よりもよく笑っている。声も明るかった。
エミの傷心を心配していた達也は少し安堵した。
達也は上着のポケットに入っているエミが捨てたブローチを思い出した。特に意味もないが何となく持ち歩いていた。
タイミングが合えばエミに返そうかとも思ったが、さすがにまだ時期ではないだろう。いくらエミの表情が明るくなったとは言え、まだ失恋してから日が経っていない。
「ライブ、楽しみにしています。百合からチケットをもらっていて、僕も見に行く予定なんです」
「そうなんですね! ライブ、楽しんでいただけるように頑張ります」
エミが飛び切りの笑顔を達也に向けた。達也の方を見たせいなのか、エミは前から歩いてきた人に軽くぶつかってしまった。
「あっ……」
ぶつかったはずみでエミが転びそうになった。達也が慌ててエミを支える。
ぶつかった相手はどこにでもいそうな初老男性だ。男性は何が癪に障るのかわからないが、発している雰囲気が明らかにイライラしている。
達也の勘は当たったらしい。男性はエミを親の仇か何かのような目つきでにらんできた。
「どこ見てるんだよ! 危ないな!」
男性が怒鳴り声を上げる。
エミは急なことで驚いたのか、ただ呆気に取られた表情をした。達也はまるで男性の怒鳴り声に危害を加えられたかのように、恐怖で表情をひきつらせた。
(――怖い)
身体が硬直して動けなくなる。
達也は小さい頃から、怒鳴り声が苦手だった。自分が怒られていなくても、自分が怒られたかのような恐怖を覚えるのだ。
このまま掴みかかってきたらどうしよう、と達也は身構えたが、初老男性は怒鳴って多少は気が済んだらしい。
そのまま顔を背けると、人混みへと消えていった。
達也は初老男性が去っていくのを見てホッとし、我に返った。
「西園寺さん、大丈夫ですか!?」
慌てて隣にいるエミに声をかける。
エミが男性とぶつかって転びそうになった時は体を支えることができた。しかし、男性が怒鳴り声を上げた時、自分は恐怖で何もできなかった。
本当は男の自分がかばわなくてはいけなかったのに。エミも相当怖かったのではないだろうか。
「ありがとうございます、大丈夫です」
エミは意外と平気そうな表情をしていた。もしかすると、ホテルのフロントの接客でああいう人間の対応にはなれているのだろうか。
達也はもしかすると、自分があの男性に怖がりすぎてしまったのかもしれないと思った。
「よかったです。すみません、僕、かばうことができなくて……」
「そんなことないです! 支えてくださってありがとうございます。おかげで転ばずに済みました。でも、あの人、びっくりしましたね。何かイヤなことでもあったんでしょうか?」
「そうですね、びっくりしました」
達也は言いながら、百合だったらあの初老男性が怒鳴った時、どんな反応をするか考えた。
百合は自分と違って度胸がある。クールに見えて優しいから、とっさにエミをかばうだろう。
それに比べて自分は……、本当に情けない。達也は心の中でため息を吐いた。
「じゃあ、私、ここから地下鉄に乗って帰ります。いろいろとありがとうございました」
少しして、エミは地下鉄の入り口の指さし、深々とお辞儀をした。そして、百合とは違う甘いような余韻を残しながら姿を消した。
やっぱり、良い娘だな、とエミを見送りながら達也は思った。あんな素敵な娘なら、次こそは裏切られない幸せな恋愛ができるはずだ、きっと。
達也は地下鉄の入り口に背を向けて、そのまま自分の住んでいる高層マンションへ向かおうとした。
(――あれっ?)
その時、達也はふと気配を感じた。
この鋭い気配、覚えがある。
達也は恐る恐る鋭い気配のした方へ視線を向けた。
(――あの男)
イリーナ・ホテルで自分をつけていた、色白の男だ。達也は男と目が合う瞬間に慌てて視線をそらした。
あの男、自分のことをものすごい形相でにらんでいたような気がする。前回会った時よりも、視線の鋭さが増しているような気がした。
あの男から、怒りと憎しみのエネルギーがただ漏れているようだった。まるで、それは「敵意」と呼ぶにふさわしいものだった。
あの男、どうして自分にあんな敵意を向けているのだろうか。
それに、さっき百合とエミとイリーナ・ホテルで話していた時はいなくなっていたのに、また姿を現した。
どうしてなのだろう。
(――やっぱり、あの男、僕のことをつけてきているんだ)
達也はあの男が自分をつけて来るだけでなく、どうしてここまでの敵意を向けてくるのだろうかと考えてみた。
もしかすると、自分があの覆面作家「柏木林太郎」だと知って嫉妬してくる同業の作家か。
いや、西村財閥のどれかの事業に恨みを持っている人間かもしれない。
もしくは、自分が百合と仲が良いからと嫉妬しているイリーナ・ホテルの客かもしれない。
百合の美しさに魅了されているホテルの常連客は多いはずだ。
やはり、達也には誰かに怒りを買うような心当たりがありすぎた。
しかし、これでわかった。あの男が自分をつけてくるのは「気のせい」ではない。




