鋭い気配④
達也が後をつけてくる男を警戒しつつ、そんなことを考えていると、前から見覚えのある人物が歩いて来るのに気付いた。
「あっ」
思わず立ち止まって声を上げる。
何かを話しながらこちらに向かって歩いて来るのは、百合とあの西園寺エミだった。
平日の昼間、百合は本業の探偵の仕事をしているはずだ。今日はどうしたのだろうか。
「達也、来てたんだ」
百合は特に驚いた表情をしていない。達也が執筆に行き詰まるとイリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」に立ち寄るのはいつものことだった。
「こんにちは。この間はありがとうございました」
エミが達也に向かって丁寧にお辞儀をする。エミはフロントの制服ではなく、この間ブローチを投げ捨てた時のような私服を着ていた。
「二人揃って、今日はどうしたの?」
達也が訊くと、百合が無表情のまま口を開いた。
「『リリア』で行うエヴァンスさんのライブの打ち合わせがあったの。私は仕事を抜け出して、西園寺さんは非番だけど打ち合わせに参加するために来ていたの」
「そうだったんだ」
百合は腕時計にチラリと目を落とすと、エミの方を見た。
「西園寺さん、私、これで失礼します。本業の打ち合わせが入っているから、もう行かなくちゃ。――じゃあ、達也、また明日」
「あっ、うん」
颯爽、という言葉が誰よりも似合うような身のこなしで、百合はロビーを歩いて行き、やがて見えなくなった。
達也は百合が立ち去る姿にすっかり見とれてしまった。
出会って以来、百合にどれだけの回数見とれてしまったのだろうか。自分でもいい加減なれないのだろうかと思ってしまうが、いつも同じことを繰り返している。
そして、自分は百合に見とれているだけで、いつも行動に移そうとしない。
自分にもどかしい気持ちもあるが、何かすると、百合は今のように颯爽と自分の元から立ち去ってしまうのではないかと思うと躊躇してしまう。
今日は良い。百合は「じゃあ、達也、また明日」と言っている。明日、自分が栄一の事務所に出勤すれば、百合はいつも通りの無表情で仕事を始めているだろう。
しかし、「いつも通り」がこれからずっと続くとは限らない。いつか、百合は自分の元から永遠に立ち去ってしまうかもしれない。
「――あの」
申し訳なさそうな声が耳に飛び込んできた。達也が我に返ると、エミがあの天使のような顔で自分を見上げているのが目に入ってきた。
達也は「しまった」と思った。
自分でも顔が赤くなってくるのがわかる。エミは自分が百合に見とれているのを悟ったはずだ。エミだって高級ホテルのフロントスタッフ、ちょっとした仕草で相手の気持ちを読み取るのは得意だろう。
「あっ、すみません」
慌てた達也はどう弁解しようかあたふたしたが、エミはふんわりとした笑顔を見せた。
「桜井さん、とても素敵な方ですよね。あんなにキレイでピアノがお上手なのに、本業が探偵だなんて、まるで小説か映画の主人公みたい」
「確かにそうですよね……」
エミの言葉に達也は救われた。上手くごまかしてくれている。
小説という言葉を聞いて覆面作家をやっている達也は少々どきどきしたが、まさかエミが自分の正体を知っているわけがない。
達也とエミはそのまま何となく並んで歩き出し、イリーナ・ホテルを出た。
元々非番のエミはイリーナ・ホテル近くの駅の地下鉄から家へ帰るという。達也の住んでいる高層マンションはその地下鉄の駅を少し過ぎた辺りだった。
達也はホテルを出る前に自分をつけていた男を思い出し、後ろを振り返った。男の姿はどこにも見当たらなかった。
やはり、自分の勘違いだったのだろうか。達也はそのままエミと並んで帰路についた。
達也は普段、親しくない人と話すのが得意ではない。しかし、今、隣にエミがいて他愛のない話をしているが、まったく苦痛ではなかった。
エミがフロントという接客の仕事をしているせいなのか、元々彼女の性格がそうなのかはわからない。一緒にいると「安らぎ」のような気持ちを感じてしまう。
達也は自分が百合を好きでなければ、エミに恋してしまうのではないかとさえ思ってしまうほどだった。
エミは元カレにひどい振られ方をしたようだが、達也には元カレの気持ちがわからなかった。こんな天使のようにかわいらしく、相手に安らぎを与えられる女の子は滅多にいないような気がする。
他に好きな人ができたとは言っても、エミと付き合っているのに誰かを好きになるのだろうか。こんなにかわいい娘なら、ずっと夢中のままでいそうだが。
まあ、どんなに美しい女優やモデルだって、幸せな恋愛ができるかというとそうではない。エミが天使のようにかわいらしい女の子だから彼氏に振られないというわけもないのだろうが。
それでも、達也にはエミを振った男の気持ちが理解できなかった。




