第9話 プール開き
明里ちゃんはひとしきり泣いた後、何も言わずに出ていってしまった。
結局、明里ちゃんのことが、ますます分からなくなった。
『愛もお金もバランスが大事だよ。
恋愛って多面的なものだから、何か一つの要素で決まることはないじゃないかな』
髪をカットしてもらった時のオーナーさんの言葉が脳裏に再生される。
そうだよな。人間ってそんなに単純なものじゃないよな。明里ちゃんも僕も……
これからのことは分からない。
それでも、明里ちゃんの言葉を聞いて、彼女を憎む気持ちにはなれなかった。
✾
蝉時雨を浴びながら、青空を映した水面を見下ろす。
市営プールは家族連れや子どもたちで賑わっていた。
かくいう僕は、海パン姿で三人の女性を待っていた。
なんでこんなことになっているんだ?
昨日、佐々木さんにプールに誘われて……奏ちゃんが来てもいいって言ってたらしいから、気分転換に来てみたけど……明里ちゃんもいるなんて。
正直、いろいろと気まずい。
「おい、童貞くん! 待たせたな!」
「うげっ!」
背後から突然、佐々木さんの声が響く。
香水の香りと共に、柔らかいものが背中に当たる。
彼女から離れ、振り向くと、
小麦色の肌に布面積の少ない黒のビキニが目に焼き付く。
「こら、そんなにマジマジと見るな!」
よく通る声と共に、奏ちゃんから足を蹴られる。
奏ちゃん……華奢な体つきだけど、
薄ピンクのフリル水着がなんとも可愛らしい。
「ほら、明里も早く来な!」
佐々木さんの視線の先、明里ちゃんが胸を隠しながら、こちらに歩いてきた。
白のフリル付きワンピースの水着……清楚なイメージ通りでなんとも可愛らしい。
って、僕はなんで水着を査定しているんだ。
自分がどうしようもなく、男だと気づいて思わず頭を振る。
「ほらほら、せっかく私が取り計らってあげたんだから、みんなもっと楽しもうぜ」
佐々木さんの気持ちは嬉しいけど、
奏ちゃんの冷たい視線と明里ちゃんからの上目遣い。
ギリギリまで行こうか迷ったけど……
それでも、僕らの歪んだ関係性が少しでも元通りになるなら――そう思った。
「って、土井先輩……それ、なんです?」
奏ちゃんが僕の手に持っているものを指さす。
「何って、浮き輪だよ」
「土井先輩……泳げないんだ……」
「当たり前だろ」
「そんな、自信満々に言われても……」
隣から明里ちゃんが僕の腕に絡みつき、わざとらしく胸を当てる。
「晴人くん。泳ぎ方なら私が教えるよ」
「えっ……」
返事に困っていると、奏ちゃんが僕らを引き離す。
「駄目です。また、土井先輩に泣かされますよ!
佐々木先輩と前園先輩を守るため、私が泳ぎ方の指南をします!
二人は適当に遊んでいてください。くれぐれも土井先輩には近づかないで」
なんか、一周回って奏ちゃんに誤解されたままの方が面白く感じてきた。
奏ちゃんは強引に僕の腕を引っ張り、
50メートルプールの中へと連れて行かれた。
「土井先輩!
二人には近づかないって言ったじゃないですか!」
「いや、でも今日は向こうから誘ってきたし……」
「男として嬉しい気持ちは分かりますけど……はぁ……まったく……」
彼女は浮き輪に浮かぶ僕の手を引き、なぜか一緒にバタ足の練習を始めていた。
「50メートルプールって深いんだな」
「ふふふ、土井先輩の生殺与奪は私が握っているんですよ。今、浮き輪の空気を抜いたらどうなるでしょうね」
奏ちゃんが悪戯な笑みを浮かべる。
「か、奏ちゃん……冗談だよね?」
「土井先輩、泣き顔は可愛いんですけどね。
前園先輩を虐めた罰を与えなきゃ。
自分の立場が分かれば少しは殊勝になるかもです」
そう言って、奏ちゃんは浮き輪の空気栓を開けた。
「ちょ、洒落にならないって……誰か!
さ、人殺しー! 助けてくれー!」
「ちょ、冗談ですってば!
人聞きの悪いこと言わないでくださいよ!」
「冗談って、本当に栓を抜いてんじゃん」
「少し、土井先輩を懲らしめたかっただけです」
「奏ちゃん、僕は無実なんだ」
「はぁ……またそんな嘘を……前園先輩はこんな男のどこがいいんですかね」
「奏ちゃんだって、僕にときめいてたじゃん」
「そ、それは……こんなクズ男だとは知らなかったんです」
僕の誤解は一生解けないかもしれない。
いや、彼女の言う通りで、この煮え切らない性格が、みんなを傷つけているのか?
「つっ!」
奏ちゃんが小さく悲鳴を上げる。
その表情は苦悶に満ちていた。
「奏ちゃん、どうしたの?」
「あ、足が……」
「つったの?」
奏ちゃんは苦しそうに頷く。
彼女は片足を押さえながら必死に水をかくが、思うように体勢を保てない。
「だ、大丈夫……です……」
「無理するな……って、うわっ!」
浮き輪が大きく傾き、水面が口元まで迫る。
彼女の手が、僕の浮き輪に食い込み、沈みかける。
「落ち着いて! 力を抜いて!」
「無理です……っ!」
さっき空気を抜かれたから、二人分の重さは支えられない。
「このままじゃ、沈む!」
「土井先輩……私を見捨てないですよね……?」
「当たり前だ……キミを最後まで見捨てはしない」
市営プールでタイタニックみたいなシリアス展開になるとは思ってもみなかった。
「土井先輩……私……もうダメっ……」
奏ちゃんの手が浮き輪から落ちる。
僕は慌てて、彼女の体を支えた。
「奏ちゃん……絶対に離さないから!」
「土井……先輩……」
僕らが沈む直前、遠くで水が跳ねる音が響く。
その音は次第に大きくなり僕たち二人を抱えた。
「ごほっ、ごほっ!」
「佐々木先輩……助かりました……」
「お前ら、大丈夫か?
じゃれ合っていると思ったら突然沈みだしたから……」
佐々木先輩のお陰でなんとか助かった。
✾
その後は、明里ちゃんとも遊んで、少しはみんなとの関係も修復できた気がした。
帰り道、日は傾き僕らは茜色に照らされていた。
奏ちゃんが無言のまま、僕の手を握る。
「えっ……」
「離さないって言ったくせに……」
夕陽が眩しくて彼女の表情は見えなかった。
理由までは分からないが、奏ちゃんは僕を許してくれたみたいだ。
この時の僕は知らなかった。
背後から虚ろな瞳が見つめていることを。




