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泥中のひかり

八木先生の葬儀が終わり、九月に入ってしばらく経った頃。


夕凪は再び、この天野法律事務所へと出勤してくるようになった。


しかし、あの頃の生気は今の彼女からは完全に失われていた。トレードマークのパンダ耳カチューシャも、どこか力なくへたれて見える。


心の中にぽっかりと巨大な穴が空いてしまったのだろう。完全に心ここにあらずといった様子で、夕凪はここ数日、あからさまなミスを連発していた。


重要な判例集のページを逆に綴じたり、裁判所へ提出する書類の職印を上下逆さまに捺したり。


普段なら黙って見過ごす瀬尾も、さすがに実務に支障が出始めると、眉をひそめてチクリと嫌みを口にした。


「……夕凪さん。八木先生のことは本当に気の毒だと思うけれど、いつまでもそうやって甘えられては困るのよ。ここはボランティアじゃなくて法律事務所なんだから、お給料をもらっているプロとしての自覚を持ってちょうだい」


「……すみません」


蚊の鳴くような小さな声で頭を下げ、夕凪はさらに身を縮める。


その日を境に、天野法律事務所の空気は、未だかつてないほどどんよりと重く沈み込んでいた。誰もが腫れ物に触るような距離感を保ち、執務室にはただ、キーボードを叩く乾いた音だけが響いている。


――そして、その最悪の空気を、持ち前の能天気さで「打破」しようと試みたのが、あのパラリーガルだった。


夕凪が看病で休んでいる間に溜まりに溜まっていた不要書類を虚ろな目でシュレッダーにかけていた時のことだ。ガリガリ、ガリガリと、機械的な音が静かな室内に虚しく響く。


その横へ、猿渡が両手をポケットに突っ込みながら、妙に軽い足取りで近づいていった。


「いや〜、夕凪さん! でも、逆にですよ? 逆に考えてみてくださいよ!」


突如として執務室に響いた大声に、俺はパソコンを叩く手を止め、瀬尾も書類から顔を上げた。嫌な予感が首筋を走る。


猿渡は、それが重苦しい空気を変えるための名案だとでも信じ込んでいるような、満面の笑みを浮かべていた。


「実はうちもね、こないだじいちゃん死んじゃったんすよ。そんとき、うちの母親なんて『あー、介護からやっと解放されて楽になったわー』って、すっきりした顔で言ってましたからね! だから、夕凪さんもいつまでもクヨクヨしないで、元気出してくださいよ!」


「…………」


猿渡に悪気がないのは分かっていた。だが今の夕凪には、剥き出しの傷口に塩をすり込まれるようなものでしかなかった。


夕凪が、シュレッダーの手を止め、ゆっくりと猿渡の方を向いた。


その大きな瞳には、すでに堪えきれないほどの涙がみるみるうちに溢れ、チャイナ服の胸元へと零れ落ちていく。


「私は……っ」


かすれた声が、静まり返った事務所に響く。


「私は……どんなにおじいちゃんになっても……どんなに、動けなくなっても……八木先生に、生きていて欲しかったです……っ!」


激しい嗚咽とともに、夕凪はその場に崩れ落ちるようにして号泣し始めた。


「え、あ、いや、夕凪さん!? 違うんすよ、俺はただ……っ」


自分の落とした爆弾の破壊力に、猿渡がみるみる青ざめ、慌てて手を振って弁解しようとする。


俺は慌てる猿渡の鼻先に、人差し指をズビッと突きつけた。そして、声を出さずに、口の形だけで強烈に叱りつける。


『お・ま・え……っ!』


「ひっ……!」


俺の形相に、猿渡が文字通り首をすくめて硬直した。


俺は深く、盛大なため息をひとつ吐き出すと、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がり、泣きじゃくる夕凪のすぐ横へと歩み寄った。ここでどれだけ猿渡を怒鳴り散らしたところで、夕凪の涙は止まらないし、事務所の業務も完全にストップしてしまう。


「……夕凪。昼飯食いに行かないか」


俺のぶっきらぼうな誘いに、夕凪は涙と鼻水でめちゃくちゃになった顔を少しだけ上げ、しゃくり上げながら首を振った。


「お昼ごはん……っ、お腹、空いてないです……」


「俺が減ってるんだよ。いいから付き合え」


有無を言わせない命令口調。だが、俺は事務机の上に置かれていた彼女の小さなバッグを代わりに掴み取ると、そっと彼女の背中に手を添え、優しく出口の方へと促した。


「……ひくっ、うぅ……」


夕凪はまだ涙を拭いながらも、俺の大きな体に先導されるようにして、トボトボと歩き出す。


二人が事務所のドアに手をかけ、外へ出る寸前のことだ。


残された執務室で、瀬尾が、青ざめたまま直立不動で固まっている猿渡の横をすれ違いざま、冷ややかな小声でこう言い放った。


「……バーカ」


「あうっ……」


バタン、と。


重厚な事務所のドアが閉まり、背後で地獄の沈黙が完成する音を聞きながら、俺は泣きじゃくる小さな部下を連れて、九月の蒸し暑い街へと踏み出した。

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