壊れたパズル
八木先生の葬儀から四十九日が過ぎ、季節は十月の中旬を迎えていた。
東京の街には冷たい秋風が吹き始め、夜になると上着なしでは肌寒さを感じる季節だ。
あの一件の後、夕凪は表面上、大分落ち着きを取り戻したように見えた。だが、それで傷が癒えたわけではない。時折、給湯室から微かに聞こえてくる鼻をすする声に、俺は何度も気づかない振りをしていた。
そんな折、俺の元に一泊二日の地方出張の予定が飛び込んできた。
海の見える地方都市での、土地の境界線を巡る泥沼の裁判期日だ。1日目に現地の裁判所での手続きと現地調査を終え、ビジネスホテルに一泊して翌日帰るというコース。
(……少しは、あいつの気晴らしにでもなればいいが)
いつもなら一人で行く仕事だったが、俺は沈み込んだままの夕凪をカバン持ちとして同行させることに決めた。
「夕凪、出張が入った。今回はお前が同行してくれ」
執務室で声をかけると、夕凪は驚いたように丸い目を瞬かせた。
「……私ですか?」
「ああ。新幹線とホテルの手配を頼む」
「……わかりました」
夕凪は素直に頷き、デスクのパソコンで新幹線とホテルの空きをチェックし始めた。
そして出張当日。
俺たちは予定通り新幹線に乗り込み、目的地の地方都市へと向かった。窓の外を流れる景色が、徐々に灰色のビル群から、荒涼とした秋の海沿いの風景へと変わっていく。
現地に到着してからはタクシーに乗り換え、目まぐるしく仕事をこなした。潮風が吹き付ける現地での調査が終わり、気づけば辺りはすっかり夕暮れに包まれていた。
新幹線の駅まで戻る途中のロードサイドのファミレスで、2人で簡単に夕飯を済ませ、今夜の宿であるビジネスホテルへと向かう。
ロビーに到着すると、夕凪がフロントへ向かい、チェックインの手続きを始めた。
俺はその隙に、ポケットからスマートフォンを取り出して東京の事務所へ電話をかける。
「ああ、瀬尾。俺だ。……現地の手続きはすべて予定通り終わった。明日の夕方には事務所に戻れると思う」
『分かりました、天野先生。夕凪さんは大丈夫ですか?』
「ああ、問題ない。じゃあ、明日の件はよろしく頼む」
有能な瀬尾への定時連絡を終えて通話を切ると、手続きを終えた夕凪がこちらへ歩いてきた。
「先生、お部屋の鍵です」
夕凪から渡されたカードキーを受け取り、エレベーターに乗り込んだ。夕凪も自分の分を持っているはずだ。目指すのは9階の客室だ。
静まり返った廊下を歩き、指定された部屋の前へ着く。カードキーをかざすと、ピッという電子音とともに解錠された。
「よし。今日は疲れたろ。ゆっくり休めよ」
俺はドアを開けながら夕凪にそう告げ、部屋へと足を踏み入れた。
だが、一拍遅れてバタンとドアが閉まった瞬間、背後にハッキリとした「気配」が残っていることに気づいた。
振り返ると、夕凪が自分のカバンを抱えたまま、当たり前のように部屋の中へ一緒に入って立っていた。
「…………? どうした? 自分の部屋に行って休んでいいぞ」
不審に思って声をかけると、夕凪は不思議そうに小首を傾げた。
「一部屋しか取っていません」
「……は?」
俺は耳を疑った。
「何故だ? 他の部屋に空きがなかったのか?」
「いいえ。八木先生と出張の時は、いつもこうしてました」
夕凪は、なぜ俺がそんなに驚いているのかが本当に分からない、という風に、無垢な瞳で俺を見つめている。
ドクン、と心臓が嫌な跳ね方をした。
頭の芯が冷たくなる。あのな、と俺は声を絞り出した。
「あのな、夕凪。成人した男女、しかも仕事仲間は普通、同じ部屋に泊まったりしないんだ。……今、他に空き部屋があるかフロントに聞いてくる」
俺の胸の中に、どす黒く強烈な違和感が這い上がってくる。
『八木先生といつもこうしていた……?』
脳裏を最悪の結末が過る。だが、まさか。あの厳格で、優しかった俺の恩師が、そんなことをするはずがない。何かの間違いだ。ただの節約か、この子の勘違いだ。そう自分に言い聞かせ、必死に邪念を振り払おうとする。
その時、壁の向こうのバスルームから、ゴボゴボとお湯を溜める音が聞こえ始めた。
俺は慌てて部屋の電話からフロントに連絡を入れた。だが、受付の男から返ってきたのは「あいにく本日は満室をいただいておりまして……」という非情な回答だった。
ガチャリとドアが開き、夕凪が部屋に戻ってくる。
「……満室だそうだ。仕方ない。幸いツインルームだし、ベッドは別々だ。今夜はこれで我慢しろ」
「はい」
俺は動揺を隠すように、デスクの上にノートPCを開き、残った仕事を片付け始めた。キーボードを叩く指が、かすかに震えているのを自覚した。
「先生、お風呂の準備が出来ました」
「……先に入っていいぞ。気を使わなくていい」
「はい」
しばらくして、シャワーの勢いある音や、湯船に身体を沈めるチャプチャプという水音が、狭い室内に生々しく響き渡る。
やがて風呂から上がってきた夕凪は、備え付けのガウン姿のまま、自分のベッドの上でゴロゴロとスマホを弄り始めた。
俺はノートPCの画面からようやく目を離し、凝り固まった身体を大きく伸ばした。頭を冷やすためにも、俺も風呂に入ることにする。
脱衣所に入り、つい数分前まで夕凪が使っていた温かい浴室に入った瞬間、心臓がドクリと小さく跳ねた。残された微かなシャンプーの香りと熱気が、どうしても俺の神経を逆撫でする。
浴槽に浸かり、必死に頭を振った。
(考えるな。八木先生に限って、そんなことはあるわけがない)
風呂を出て、俺は自分のベッドに入った。
「……そろそろ寝るか。おやすみ」
「おやすみなさい、先生」
パチリ、とベッド脇のサイドライトを消す。部屋は一瞬で、窓の外の街灯がかすかに差し込むだけの暗闇に包まれた。
静寂が部屋を満たす。波の音が遠くで聞こえるような気がした。
――数分が経った頃だろうか。
かすかにシーツの擦れる小さな音が響いた。
直後、俺が寝ているベッドの足元、その端のあたりが、柔らかな重みでぐっと沈み込んだ。
心臓が凍りつく。暗闇の中、すぐ近くに気配がある。
「……っ、何をしてる?」
思わず身を起こした俺の視界の先、暗闇の中で、夕凪が俺のベッドの中に潜り込んできていた。
彼女はそのまま、ためらいもなく俺の隣に身体を横たえ、小さな手をそっと俺の胸元に添えた。
そして、信じられないほど無垢な、ただ与えられた役割を全うするかのような声で、呟いた。
「……八木先生に、天野先生を救うように言われました」
――その瞬間。
俺の頭の中で、バラバラに散らばっていた全てのパズルのピースが、恐ろしいほどの速度でガチガチと音を立てて噛み合っていった。
なぜ彼女が、今の時代にそぐわないあの露出度の高いミニスカチャイナドレスを着せられていたのか。
なぜ彼女が、弁護士事務所の業務中に、まるでお袋の味のようなかぼちゃの煮物を作っていたのか。
なぜ彼女が、自分の世代ではない、昭和や平成初期の歌謡曲を完璧に歌いこなしていたのか。
なぜ彼女が、出張のたびに当たり前のように同じ部屋に泊まっていたのか。
すべて、あの八木兼人という老人が、自分好みの理想の女として、この夕凪蘭を歪に育て上げていたからだ。祖父と孫娘ほども年齢の離れた2人に、間違いなく、身体の関係があった。その事実が脳髄を突き刺した瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れた。
同時に、俺の脳裏に、かつて亡くした最愛の妻の顔が過る。
俺が妻を亡くして狂ったように絶望していたあの時、八木先生はどんな目で俺を見ていた?あの時からもう、この女を俺に渡すつもりでいたのか?
『あの子はお前さんを救ってくれる』――あの病室での遺言は、優しさなんかじゃない。自分が散々玩具にして弄び、手垢のついた女を、今度は俺の寝室に放り込もうという、悍ましい狂気の押し付けだったのだ。
胃の底からせり上がってくる猛烈な嘔吐感を必死に堪え、俺は震える声で叫んだ。
「……触るな」
「……?」
「触るなと言っている……! 触らないでくれ!!」
俺は半狂乱のまま、自分の胸元に触れていた夕凪の身体を、ベッドの上から全力で突き飛ばした。
ドスン、と床に尻もちをつく鈍い音が暗闇に響く。
夕凪は暗闇の中で小さな身体を硬直させていた。やがて何も言わずに立ち上がると、自分のベッドへと戻っていった。
俺は夕凪に背を向け、布団を頭から被った。
あの八木先生が。俺の尊敬していた恩師が。
ゾッとするような悪寒が全身を駆け巡り、歯の根がガチガチと震える。
どれほどの時間が経っただろうか。
暗闇の中、シーツが擦れる音が聞こえ、続いて、夕凪がベッドから起き上がる気配がした。
彼女は足音を忍ばせながら、静かに部屋のドアを開け、そっと外へと出ていった。
カチャリ、と小さくドアが閉まる音が部屋に響く。
(……飲み物でも、買いに行ったのか?)
一人になりたかった。だから、追いかける気には到底なれなかった。
あの汚らわしい事実から、一刻も早く目を背けたかった。
その後、俺はいつの間にか眠りについていたものの、何度も悪夢を見ては跳ね起きるのを繰り返した。
結局、十月の冷たい夜が明けるまで、俺が深く眠りにつける時間は一瞬たりとも訪れなかった。




