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波濤を望む階段

何度も浅い微睡みを繰り返し、その度に悪夢を見ては跳ね起きる最悪の夜だった。

ようやく次に目を覚ました時、遮光カーテンの隙間から、白々とした朝の光がわずかに部屋へと差し込み始めていた。


遠くから、ザザーン、ザザーンと、規則正しい秋の波の音が聞こえる。


ふと、室内の違和感に気づき、視線を巡らせた。

――隣のベッドが、空になっている。


シーツは乱れたままだが、夕凪の姿がない。

(まさか、昨晩部屋を出ていったきり、戻っていないのか……?)

にわかに心音が速くなるのを感じながら、俺はベッド脇のライトのつまみを最大値まで回した。眩しい白熱灯の光が、重苦しいツインルームを照らし出す。


ベッドから這い出して、ユニットバスのドアの前に立ち、静まり返った空間に声をかけてみる。


「……夕凪? いるか?」


返事は、なかった。


どこへ行った。あいつ、こんな見知らぬ土地の真夜中に一人で飛び出して、一体どこへ――。

じわじわと嫌な汗が背中を伝い、焦りが怒りに変わろうとした、その時だった。


カチャリ、と部屋のドアが静かに開いた。


「夕凪っ……! お前、どこに行っていた!?」


思わず強い声が出た。ドアの隙間から滑り込んできた夕凪は、冷たい朝気に身をすくませながら、驚いたように大きな目を瞬かせた。


「……先生、起きてたんですか?」


夕凪は少しの沈黙の後、バツが悪そうに視線を床へ落とし、小さな声で呟いた。


「……駅前のファミレスに行ってました」


「駅前? ……ここからかなり距離があるぞ。歩いたのか?」


「……はい。先生が怒ったから……一人になりたいかと思って」


その言葉に、胸の奥をギリリと、重い罪悪感で締め付けられるような痛みが走った。

こいつは、俺に気を使って部屋を出ていったのだ。こんな見知らぬ土地の真夜中に、一人で何キロもある暗い夜道を歩いて。

もし事件にでも巻き込まれていたら――そう思うと、激しい後悔が押し寄せてきた。


「……危ない真似はするな」


俺は押し殺した声で、それだけを言った。そして、一度深く息を吸い、顔を背けながら言葉を絞り出す。


「……夜中、追いかけなくて悪かった」


夕凪は、少しだけショボンと肩を落として、小さく頭を下げた。


「……ごめんなさい」


まだ朝食の時間まではしばらくある。2人はそれ以上言葉を交わすことなく、それぞれのベッドへと戻り、張り詰めた沈黙の中で、ようやく数時間の浅い眠りについた。


ホテルのビュッフェで簡単な朝食を済ませ、チェックアウトを終えたのは午前九時を回った頃だった。


現地の裁判所での最後の手続きを終わらせるため、俺たちは再び移動を開始した。タクシーを使う距離だが、重苦しい空気のまま車内の密室に閉じこもるのが嫌で、俺は「少し歩くぞ」と夕凪を促した。


すぐ近くに海が見える、起伏の激しい地方都市の坂道。

アスファルトを踏み締める2人の靴音だけが響く。


俺は歩きながら、ずっと考えていた。昨夜のこと、八木先生のこと、そして、この夕凪という女の今後のこと。

間違いなく、夕凪は被害者だ。八木先生の歪んだ世界で育ち、正常な大人の価値観を知らないまま、自分好みの女に作り替えられていたのだ。あいつに悪気なんてない。悪いのはすべて――。


深い思考の海に沈んでいた俺の意識を、夕凪の突拍子もない声が引き戻した。


「先生。灯台があります」


夕凪が立ち止まり、はるか山の上の方を指差している。


「……ああ。近くに漁港があるからな」


俺は足を止めず、ぶっきらぼうに返した。しかし、夕凪は目を輝かせたまま、その白い塔を見上げている。


「行ってみたいです」


「行ってみたい? ……山の上だぞ?仕事の前だぞ?」


「あそこに階段があります!」


俺の制止など耳に入っていないかのように、夕凪はリクルートスーツのスカートを揺らし、急にタタタッと前方へ走り出してしまった。


「あっ、おい! 待て、夕凪!」


慌てて俺もその後を追う。

そこにあったのは、長年、容赦ない潮風に打ち付けられて角が丸くなった石の階段だった。錆びた鉄パイプの手すりの、その向こうは断崖絶壁で、真下に海が広がっている。しかも、見上げるほどに急勾配だ。


夕凪はそのボロついた急階段を、まるで重力なんてないかのように軽々と、身軽に登っていく。

夕凪は22歳。俺は35歳。革靴でこの悪路を全力疾走する若さには、到底敵わない。


「まて……っ、待ってくれ……っ!」


肺が焼けるように熱い。重い資料カバンが肩に食い込む。

ようやく開けた高台へとたどり着いた時、俺は完全に酸欠状態だった。


「ぜえ、ぜえ……っ、はあ……っ、何だって言うんだ、いきなり……っ」


俺は両手を膝につき、情けなく肩で激しく息をしていた。


そのすぐ目の前で、秋の冷たい海風を全身に浴びながら、夕凪は白亜の灯台を眩しそうに見上げていた。

そして、息を乱す俺の方を振り返ると、その大きな瞳をまっすぐに向け、信じられないほど無垢な声を響かせたのだ。


「綺麗なものを見たら……」


「…………え?」


「天野先生、元気が出るかと思って……」


風が、ゴオッと音を立てて俺たちの間を吹き抜けていった。


俺は、あまりの彼女の単純さに、そして自分を省みない健気さに、ただただ呆気に取られてしまった。


昨晩、俺から激しい拒絶を浴びせられ、夜通し冷たい暗闇の中を駅前のファミレスまで歩かされたのだ。普通なら、俺を恨むか、恐怖して心を閉ざすはずの局面だ。

それなのに、この子はそんな自分の傷など綺麗に忘れて、ただ「天野先生の元気がないから、励ましたい」という一点だけで、この過酷な階段を笑顔で駆け上がったというのか。


昨夜のことが、こんな灯台を見ただけで帳消しになるはずがない。八木先生のしてきたことが許されるわけでもない。

けれど――。


(……救われる、か)


八木先生が病室で遺した、あの言葉が脳裏をよぎる。


『あの子は、きっとお前さんを救ってくれるよ』


あまりにも複雑で、未だに悍ましい泥沼の中にいることには変わりない。だが、この夕凪蘭という少女の根底にある、決して汚されることのない「本物の純粋さ」に触れた瞬間。

ほんの少しだけ、八木先生の言っていた言葉の一端が、わかったような気がした。この眩しすぎる光が、妻を亡くして以来、ずっと冷え切っていた俺の心を揺さぶっていることだけは、認めざるを得なかった。


「……お前なぁ」


俺は、まだ上がったままの息を吐き出しながら、苦笑混じりに前髪を掻き回した。


「……こんなところまで走らせやがって。余計に疲れたわ」


「あ、すみません……」


シュンと縮こまる夕凪を横目に、俺は眼下に広がる海へと視線を向けた。

どこまでも、秋の青い海が果てしなく広がっている。


「……まあ、悪くはないな」


俺の胸の奥の澱みが、かすかに晴れていくのを感じていた。


最悪の夜を越えた海の向こうから、雲を割って、秋の柔らかな陽射しが俺たちを白々と照らし始めていた。

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