密室の遺言
あの泥沼の出張から東京に戻って1週間。事務所の空気は、どこか奇妙に張り詰めていた。
あの最悪な夜――夕凪から突きつけられた「八木先生に、天野先生を救うように言われました」という言葉。そして、俺が彼女を突き飛ばした、あの夜の感触が、まだ指先に残っているような気がした。
事務所での夕凪は、何事もなかったかのように健気に働いていた。だが、お茶を運んでくる彼女のミニスカチャイナドレスを見るたびに、俺の脳裏にはあの恩師の影がチラつき、胃の底がドス黒い不快感で満たされる。あいつは被害者だ。何が普通で何がおかしいのかも、教えてもらえないまま育ってきたのだから。
そんな十一月の上旬、俺は八木先生の葬儀の場で、喪主の息子さんから言われた言葉を思い出していた。
『父の生前のオフィスの書類や、部屋の片付けをする時間がありません。弁護士の守秘義務が絡む書類もあるでしょうし、元部下である天野先生に、遺品整理をお任せすることは可能でしょうか?』
実の子供たちにとって、八木先生の死は「早く片付けるべき面倒な手続き」だった。その割り切り方を苦々しく思いながらも、俺は今日、その遺品整理を実行することに決めた。
「夕凪、お前は瀬尾と一緒に事務所の留守番だ。俺は午後から、八木先生の生前のオフィスの片付けに行ってくる」
デスクで声をかけると、夕凪はハッとしたように顔を上げた。
「……先生のオフィスですか? 私も、お手伝いに――」
「いや、いい」
俺は遮るように手を挙げた。
「弁護士の守秘義務が絡む古い事件ファイルが多い。俺一人でやった方が早い。お前はここで自分の仕事をしろ」
本当は、これ以上彼女を八木先生の影に触れさせたくなかった。不器用な、俺なりの配慮だった。夕凪は「……わかりました」と寂しそうに肩を落とし、それ以上は何も言わなかった。
午後2時。主を失って埃の積もった八木先生の個人オフィスに、俺は一人で立っていた。
壁一面を埋め尽くす法律書の棚。年季の入った重厚な木製のデスク。その上には、使い込まれた万年筆が一本、ペン立てに刺さったままだ。窓際には小さな観葉植物が一鉢、水をやる者もなく、すっかり枯れ果てていた。
かつて何度も通い、法律のイロハを叩き込まれた懐かしい部屋だ。あの頃の八木先生は、俺にとって純粋に尊敬できる恩師だった。理不尽な依頼人にも怯まず、若い俺の失敗を叱りながらも見捨てなかった。その記憶は本物だと、今でも思う。
だが、あの出張で「真実」に気づいてしまった今、この部屋のすべてが、どこか歪んだ執着の残滓のように見えて仕方がなかった。
「……さて、やるか」
俺はスーツの上着を脱ぎ捨て、段ボールを開いた。
デスクの引き出しから、古い事件記録や法律書を黙々と引っ張り出し、仕分けていく。シュレッダーにかけるべき守秘義務書類、息子さんたちに送るべき私物。無心に手を動かしていると、余計なことを考えずに済んだ。八木先生への憤りも、夕凪への哀れみも、とりあえず棚に上げて、ただの作業として片付けられる。それが今の俺には、ありがたかった。
作業を始めて2時間が経った頃、備え付けの大きな本棚の最下段、鍵の開いたままの引き出しに手をかけた時だった。
奥の方から、古い領収書の束と、数冊のノートが転がり出てきた。
何気なくそのノートをめくった瞬間、俺の手がピタリと止まった。
そこには、流麗な八木先生の筆跡で、びっしりと書き込みが続いていた。
――夕凪蘭に関する記録だ。
『◯月◯日。昔のCDを買ってやる。車内で流すと、嬉しそうに真似をして歌っていた』
『◯月◯日。中華街で見つけたチャイナドレスを買い与える。少し照れていたが、実によく似合っている』
『◯月◯日。蘭の作ったかぼちゃの煮物が、なかなか上手くなってきた』
『◯月◯日。蘭、ようやくひらがながすべて書けるようになる。自分の名前の漢字はまだ難しいようだ』
「……っ」
頭の芯が冷えていく。
かぼちゃの煮物の味が、カラオケでの歌声が、頭の中で鮮明に甦る。
――だが、一つだけ引っかかる記述があった。
ようやくひらがなが書けるようになった。自分の名前の漢字はまだ難しい。
一体、何歳の時の記録だ。あいつは今22歳だ。まさか、学校にも行っていなかったのか。
妄想じゃなかった。あの恩師は、この少女を何年もかけて、自分好みの女へと丁寧に染め上げていたのだ。
ノートを握りしめる指が、怒りで激しく震えた。
誰もいない静まり返ったオフィスで、俺は深く息を吐き出した。
(……どこまであの子を縛れば気が済んだんだ、八木先生)
ノートを段ボールの底へ押し込み、俺は引き出しを閉めた。一刻も早くこの部屋を引き払いたかった。
だが、あの灯台の上で、夕凪が俺に言った言葉が耳の奥でリフレインする。
『綺麗なものを見たら、天野先生、元気が出るかと思って……』
あの底抜けの無垢さと、手元にあったノートの記録。その凄まじい乖離に、俺の心は千々に乱れた。恩師への激しい憤りと、八木先生の影の中で今も健気に生きている夕凪への、言いようのない哀れみ。
「……お前を、どうすればいい」
誰もいないガランとした密室で、俺の呟きは虚しく消えていった。
俺は段ボールを閉じ、上着を羽織って立ち上がった。ノートは、息子さんたちには渡さない。どこかへ持っていくわけでもない。ただ、誰にも見せるべきではないと思った。
段ボールの蓋をガムテープで封じながら、俺はもう一度だけ、この部屋を見回した。壁一面の法律書。年季の入ったデスク。窓際の、枯れた観葉植物。かつて俺が尊敬していた男の、すべての痕跡。
窓の外には、いつの間にか十一月の冷たい夕闇が、静かに押し寄せてきていた。




