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見えない傷

十二月に入り、東京はいよいよ本格的な真冬の寒さに包まれていた。

窓の外を見やれば、どんよりとした鉛色の空から、時折思い出したように白い初雪がひらひらとチラついている。


その日の午後、事務所の中は奇妙な静寂に満たされていた。

猿渡は朝から役所への職権請求で出払っており、瀬尾も午後イチから他県の裁判所での口頭弁論に向かったため、夕方まで戻らない。広い執務室に残されているのは、俺と夕凪の二人だけだった。


カタカタとキーボードを叩きながら、俺はチラリと向かいのデスクに視線をやった。

ここ数日、夕凪の様子が明らかにおかしい。


気づいたのは3日前だった。いつもなら手作りの弁当を広げる昼時に、夕凪はコンビニのおにぎりを1個だけ、デスクの隅で静かに食べていた。2日続いた時点で、俺は何かがおかしいと思い始めていた。


いつもならおどおどしながらも健気に動くあいつが、今日は何度も書類の手を止め、今にも閉じそうな瞼を必死に押し上げるようにして頭を振っている。あからさまな寝不足だ。

それだけじゃない。コピー機の前を通った時、すれ違いざまにツンと鼻を突く匂いがした。


(……タバコ、か?)


法律事務所のモラルを真っ向から揺るがすチャイナドレスを着てはいるが、夕凪がタバコを吸うようなところは一度も見たことがない。何より、その肌や髪に染みついたヤニの匂いは、換気の悪い場所に長時間いたことを物語っていた。


気もそぞろで集中力が完全に切れている夕凪を見かねて、俺はペンを置いた。


「夕凪」


「あ、はいっ!」

名前を呼ばれた夕凪は、ビクッと肩を跳ね上げて背筋を伸ばした。その大きな瞳の周りには、薄くドス黒い隈が浮き出ている。


「お前、寝不足か?」


「え……っ、そんな、そんなことないです! ちゃんと寝てます!」

慌てて手を振りながら否定するが、声に全く覇気がない。嘘をつくのが下手くそすぎる。


俺は椅子を引いて立ち上がり、彼女のデスクの前まで歩み寄った。距離が縮まると、やはりあのタバコの匂いが濃くなった。


「……タバコくさいぞ。どこにいた」


「えっ……あ、これは、その……」

夕凪はハッと自分のチャイナ服の肩のあたりの匂いを嗅ぎ、顔を真っ青に染めた。

「吸ってないです! 私、吸ってないです、ただ……その、匂いが移っちゃって……」


「どこで移った」


「……ハンバーガーショップとか、ファミレスとか……」


「……お前、アパートに戻ってないのか?」


怒られると本能で察したのだろう。夕凪は完全に怯えきった顔になり、視線を激しく彷徨わせながら言葉を詰まらせた。

「えーと、あの……えーと、その……アパート、取り壊すから出ていってって、大家さんに言われちゃって……」


「……退去させられたのか。それで、ハンバーガーショップやファミレスを転々としていたのか」


口から出た自分の声が、怒りで震えているのが分かった。

あの夜に俺が突き放してしまったから。それ以来、何も言えずにいたのだ。

夜な夜なファミレスのブースで丸まって朝を待っていたのだ、こいつは。


夕凪は首を激しく横に振った。

「あのっ、あの……っ、先生!」


「馬鹿か、お前は!!」


気がつけば、俺は声を荒らげて怒鳴っていた。


「なぜ相談しない! 住む場所がなくなるなんて大問題を、なぜギリギリまで隠す!? 俺が八木先生からお前を引き継いだ時、仕事だけの話だとは思っていない。お前の生活が立ち行かなくなれば、仕事にも支障が出る。それくらい分かるだろうが!」


怒鳴り声が静まり返った執務室に響いた。

夕凪は唇をぎゅっと噛んで、必死に堪えていた。それでも、大きな瞳にじわりと涙が滲んで、今にも零れ落ちそうに揺れている。


「……ハァ」


俺は長い溜息を吐き出した。怒鳴りたかったわけじゃない。あまりの危うさに、背筋が凍っただけだ。


「……荷物はどこにある」


「……えき、駅前の……コインロッカーに、あります……」

鼻をすすりながら、消え入るような声で夕凪が答えた。


「わかった。今日仕事が終わったら、その足で荷物をまとめろ」

俺は腕を組み、事務的なトーンで告げた。

「そのまま、俺の家に来い」


夕凪の目が、大きく瞬いた。滲んでいた涙が、その拍子にひと筋だけ頬を伝う。

「……えっ?」


「次の住居が正式に見つかるまで、俺のマンションの客間を貸してやる。生活拠点が不安定な人間に、まともな仕事はできない。……ただし、瀬尾と猿渡には言うなよ。余計な邪推で職場の空気が乱れるのは御免だ」


「で、でも……先生に悪いです……!」


「断るな。ボスの命令だ」

俺は彼女のデスクに両手を突き、真っ直ぐにその瞳を見据えた。

「お前がぶっ倒れて無断欠勤される方が、今のうちには致命的だ。分かったら涙を拭け。……いいな?」


夕凪はしばらく、呆然と俺の顔を見つめていた。だが、俺の目の奥にある引く気のない光を読み取ったのだろう。

やがて、手の甲で目元をそっと拭うと、静かに深く頷いた。


「……わかりました。お世話に、なります……」


窓の外には、いつの間にか冷たい十二月の夕闇が、静かに押し寄せてきていた。

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