アイスのルール
天野のマンションへ引っ越してきた初日、夕凪はまるで傷ついた野良猫そのものだった。
客間として与えた六畳の洋室があるにもかかわらず、あいつはリビングの隅、あるいはソファの一番端っこに、小さな身体をさらに縮こまらせて、膝を抱えたままじっと座っていた。駅のコインロッカーから引き上げてきたボストンバッグを足元に置き、声をかけるまで瞬きさえ忘れたように、部屋の何もない空間をぼんやりと見つめている。
「……お世話に、なります」
蚊の鳴くような声でそう頭を下げて以来、夕凪は自分から動こうとしなかった。
それは、俺が仕事に向かう平日の昼間も同じだったらしい。
休日、俺が午前中だけ事務所へ顔を出し、夕方に帰宅した時のことだ。リビングのドアを開けた瞬間、俺は思わずその場に立ち尽くした。部屋の明かりは消えたままで、十二月の早い夕闇が室内を薄暗く支配している。その暗がりの中、夕凪は、俺が朝出かける時と全く同じ場所――ソファの端っこに、朝と同じ姿勢のまま座っていたのだ。
電気をつけることも、テレビのリモコンに触ることも、冷蔵庫を開けることすら、自分に許さずに。
誰かの明確な許可がなければ、息をすることすら罪だと思っているかのようなその姿に、俺は胸の奥がひどく痛んだ。
「夕凪」
俺は上着を脱ぎ、なるべく声を低くして語りかけた。
「ここではお前が好きにしていい。テレビを見ててもいいし、外に出かけてもいい」
せめて自分から何かを欲してくれという、俺なりの配慮だった。だが、夕凪は膝に顎を乗せたまま、弱々しく首を横に振った。
「……行きたいところ、ないです」
「ない?」
「はい。でも……どこへ行けばいいか、わからなくて」
ぽつりと溢されたその一言に、俺は言葉を失った。
行きたい場所がないのではない。「自分で選んで、どこかへ行く」という概念そのものが、あいつの人生には最初から存在しないのだ。
ただ部屋の隅でフリーズしている夕凪を見て、俺はいよいよ耐えきれなくなった。
このままでは、こいつは本当にただの置物になってしまう。何でもいい、こいつをこの部屋に繋ぎ止めるための『役割』を、俺の許可という名の大義名分を、与えてやらなければならない。
「夕凪、聞け」
俺は彼女の前に立ち、腕を組んで見下ろした。
「お前がそうやって縮こまっていると、俺の気が散って仕事にならない。だから、お前にこの家での仕事をやる」
夕凪が、長い睫毛を震わせて俺を見上げた。
「料理は出来るんだろ? 以前、事務所でも作っていたな。これからは、お前にうちの夕飯を作って欲しい。メニューはお前に一任する。食材は冷蔵庫のものを好きに使え。足りないものがあれば俺のカードで買い出しに行けばいい。いいな?」
「私が……先生のご飯を、作っても、いいんですか?」
「ああ。断るなよ、ボスの命令だ」
夕凪はしばらく俺の顔を見つめてから、静かに頷いた。
「……はい」
やはりこいつは、誰かに命令され、役割を与えられないと動けないのだ。その歪さに切なさを覚えつつも、ようやく見せてくれた静かな頷きに、俺の胸の支えが少しだけ軽くなった。
「……よし」
俺はフッと口元を緩めると、キッチンへ向かい、冷凍庫のドアを開けた。
「アイス食うか?」
「……アイス?」
取り出したのは、チョコレートが分厚くコーティングされた市販のバニラアイスバーだ。それを夕凪の目の前に差し出すと、あいつは両手で恭しくそれを受け取った。
「いただきます」
袋を破り、アイスを一口齧った瞬間、夕凪の顔がとろけるように綻んだ。
「……美味しい」
たった一言だった。甘いものを口にした途端、まるでただの無邪気な少女に戻ってしまう。あいつのその極端な無防備さが、どうにも憎めなかった。
「そうか」
俺も自分の分の残りを口に放り込み、あっという間に平らげた。冷たい糖分が、一日中張り詰めていた脳の疲れを癒やしていく。
だが、まだ物足りない。
俺は棒をゴミ箱に捨てると、もう一本食べようと再び冷凍庫に手をかけた。
「天野先生」
背後から、不意に鋭い声が飛んできた。振り返ると、夕凪がまだ自分のアイスを持ったまま、真剣な顔で俺を睨んでいた。
「アイスは、一日一本です」
俺は冷凍庫のドアを開けたまま、完全に硬直した。
「……。」
沈黙が流れる。俺はゆっくりとドアを閉め、夕凪を見据えた。
「……八木先生との、決まりか?」
「そうです」
こいつの中には、まだあの老人のルールが生きている。その事実が、一瞬だけ胸の奥を翳らせた。だが、俺はそれを、子供じみた不敵な笑みで叩き潰してやった。
「……ここは俺の家だ。俺がルールだ」
そう言って、俺は冷凍庫からもう一本、同じチョコレートアイスを取り出してみせた。
夕凪の目が、信じられないものを見るように丸くなる。
「あ、ずるいです! 先生だけずるいです、私にもください!」
「駄目だ。お前は八木先生のルールを守れ。俺は俺のルールに従う」
「そんなの無しです! 私も食べます!」
夕凪はソファから飛び起きると、そのまま俺に詰め寄ってきた。
「残念だったな。これが最後の一本だ」
俺はあえて、あいつの手の届かない高い位置へと、アイスを握った右手を突き上げた。
「あ、届かない……っ、先生、意地悪です!」
ジャージ姿の夕凪はその小さな背を一生懸命に伸ばし、爪先立ちになって俺の腕にすがりついてくる。177cmの俺と、こいつの頭頂部の差は、どう見ても20cm以上ある。届きそうで届かない距離で、あいつは必死に手を伸ばし、俺の胸元に何度も柔らかくぶつかってくる。
「おい、危ないぞ夕凪」
「いやです、ください! 先生のルールなら、私も二本目食べていいはずです!」
笑いながら俺の腕を掴もうとする夕凪の髪から、シャンプーの、仄かに甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
ファミレスの、あの嫌なタバコの匂いは、もう綺麗に消えていた。
だが、俺のマンションの天井の下、俺の手の届くすぐそこで、夕凪が確かに、生きて笑っていた。
窓の外には、いつの間にか冷たい十二月の夜風が吹き荒れていたが、この部屋の中だけは、驚くほど温かい熱に満たされていた。




