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春の嵐と、野良猫のぬくもり

夕凪が俺のマンションに転がり込んできてから、三ヶ月ほどが経った。

三月中旬の東京は、暦の上では春だというのに、夜になると冬の名残のような冷たい底冷えが襲ってくる。今夜も窓の外では、春の嵐を予感させる激しい夜風がガタガタとサッシを叩いていた。


だが、俺の部屋の中だけは違った。

夜の10時を回った頃。連日の裁判準備で遅くなり、疲れ果てて鍵を開けたリビングは、設定しっぱなしの床暖房のせいで常夏のように温まっていた。上着を脱ぐどころか、半袖一枚でも十分に過ごせそうな熱気だ。


そんなリビングの光景を目にした瞬間、俺は思わずドアノブを握ったまま立ち尽くした。


「……お前、くつろぎすぎだろ」


思わず額を押さえた。

リビングのカーペットの上に、夕凪が仰向けで大胆に寝転がっていた。

風呂上がりなのだろう、濡れたピンクがかった髪にはタオルが無造作に巻き付けられている。服装は、薄手のキャミソールに短い短パン。床暖房の熱に当てられた太ももが容赦なく露わになっており、あいつはソファの座面に両足を投げ出すという、上下逆さまの異様な体勢でテレビを凝視していた。


手元には、食べかけのチョコレートアイスバー。今にも溶けた汁がカーペットに垂れそうだ。


リビングの大型テレビには、今時の若者に人気のお笑い番組が映し出されていた。

画面の向こうでは、江戸っ子に扮した男がこの世の不条理を嘆き、テンポの良いリズムに乗せて自分の名前をリズミカルに歌い上げている。スタジオは大爆笑に包まれているが、俺には何が面白いんだかさっぱり分からなかった。


玄関の音に気づいた夕凪が、逆さまの視線のまま、液晶画面から俺へと大きな瞳を向けた。

「あ、おかえりなさい、天野先生」


「……ただいま。アイスを垂らすなよ」


ぶっきらぼうに言いながら、俺はキッチンへ向かってネクタイを緩める。

三ヶ月前、この部屋の隅っこで電気もつけずに呼吸を潜めていたあの小娘が、今や我が物顔でリビングを制圧している。野良猫が、ついに腹を見せてひっくり返ったような光景だった。


ただ、一緒に暮らし始めて分かったが――夕凪蘭という女は、致命的にズボラで、風呂上がりにいつまでも髪を乾かさない悪癖があった。


「夕凪、テレビを消して髪の毛を早く乾かせ。風邪をひくぞ」


「はーい。後で乾かします、これが終わったら」

夕凪はアイスを舐めながら、画面から目を離さずに生返事をする。


「そう言っていつもそのまま寝てしまうだろ。毎朝、寝癖で爆発した髪を直すのに洗面台を十五分も占領されるのは御免だ。今すぐやれ」


「もうちょっと、もうちょっとで終わりますからぁ……」


のらりくらりと言い訳を続ける姿に、俺はついにしびれを切らした。

「……もういい、俺がやる。そこに座れ」


「えっ? いいですよ、自分でやりますって!」

慌てて起き上がろうとする夕凪を無視して、俺は洗面所から無言でドライヤーを持って戻ってきた。ソファの真ん中に腰を下ろし、床のカーペットを顎で指す。

「来い。ボス命令だ」


「うぅ……ずるいです、ボス命令」

夕凪はおずおずと、ソファの下のカーペットへと移動してきた。あいつの小さな背中が、ちょうど俺の両膝の間に収まった。


ドライヤーのスイッチを入れ、激しい駆動音とともに温風を吹き付ける。

タオルの下から現れた夕凪のピンクがかった髪は、細くて、驚くほど柔らかかった。指の腹で頭皮を傷つけないよう、毛先を遊ばせるようにして丁寧に風を当てていく。自分のケアにはとことん無頓着なこの髪を、俺はゆっくりと指で梳かしていった。


「ふあ……っ」

温風が気持ちいいのか、夕凪が猫のように細い肩をすぼめ、小さくあくびをした。


手の中で揺れる髪を乾かしていると――俺の脳裏に、不意に、ある記憶が鮮烈に甦ってきた。


(あぁ……前も、こうしていたな)


それは、病に倒れる前の、若き日の妻の記憶だった。

仕事が遅くなった夜や、妻が疲れている時、俺はよくこうして風呂上がりの妻の髪を乾かしてやったものだ。夕凪の髪の長さや、指のすき間をすり抜けていく感触が、あの頃の妻と酷く似通っていた。


一瞬、時間の感覚がおかしくなる。

ここはどこだ。俺は一体、誰の髪を乾かしているんだ。


あの日、二度と戻らない時間の中に、最愛の、あの人を置いてきてしまった――。


胸の奥から、深い喪失感が突き上げてきた。目頭に、急激に熱いものが込み上げてくる。


俺はドライヤーのスイッチを切った。このまま続けられる気がしなかった。

右手でぎゅっと目頭を押さえ、視界を塞いだまま、ただ呼吸を整えることだけに集中する。


静寂の中、膝の間の夕凪が、かすかに動く気配がした。ソファに膝をつく、衣擦れの音。

次の瞬間、温かいものが俺の側頭部を包んだ。キャミソール越しに伝わってくる、驚くほど柔らかい体温。細い両腕が横から俺の頭を抱きしめ、子供をあやすように、そっと優しく髪を撫でてくる。

「……っ」


俺の身体が硬直する。


「……先生、さみしくなっちゃったんですか?」


耳元で、聞いたこともないほど穏やかな声が響いた。

いつもおどおどしている夕凪とは違う。すべてを包み込んでくれるような、絶対的なぬくもりがそこにあった。


目頭を押さえる右手に力を込めたまま、俺は消え入るような声で呟いた。


「……バカを言うな」


強がりを言っている自覚はあった。

だけど、俺の頭を抱きしめるその小さな手を、振りほどこうとは、どうしても思えなかった。

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