背中合わせの境界線
五月に入ると、俺の心には毎年、鉛のような憂鬱が居座り始める。
三十歳という若さで病死した、妻・静香の命日が近づいてくるからだ。
この時期になると、どうしても寝酒の量が増えた。書斎のベッドに向かう気力すら起きず、リビングのソファでウイスキーのグラスを傾けたまま、泥のように眠りに落ちてしまう夜が続いていた。
なんとなく元気がない俺の様子を、夕凪は黙って見つめていた。
命日が近づくと、きまって妻の夢を見る。
不思議なほど、楽しかった頃の思い出はほんの少ししか出てこない。夢に現れるのは大抵、白い病床に伏せり、日に日に痩せ細っていく妻の痛々しい姿ばかりだった。
夢の中で、俺はいつも激しくうなされていた。これが悪夢だと、もうすぐそこにある現実ではないのだと、脳のどこかで気づいている。だが、どんなに苦しくても、俺はこの悪夢から覚めたくなかった。目を開けてしまえば、あの人がこの世界にもういないという、決定的な絶望を突きつけられるからだ。
――その時だった。
ずり……、ずり……と、衣擦れの音が微かに鼓膜を揺らした。
続いて、俺の背中に、何か温かくて柔らかな「質量」が、ごそごそと不器用に滑り込んでくる感触がした。
狭い。ギューギューに押し潰されるような、息苦しいほどの圧迫感。
俺の背中と、ソファの頑丈な背もたれ。そのわずか数十センチの隙間に、無理やり身体を滑り込ませ、俺の背骨にぴったりと自分の背中を合わせてくる者がいた。
その体温の、あまりの熱さに――俺は弾かれたように悪夢から目を覚ました。
横向きのまま見つめるソファの背もたれ。背中に伝わってくるのは、間違いなく、キャミソール姿の夕凪の熱い体温だった。
「……夕凪。何をしている」
俺はまだ半分夢の中にいるような掠れた声で、背後の気配を咎めた。
「狭いからどけ」
「やです」
夕凪は背中を押し付けたまま、頑なに言い放った。
「天野先生、最近毎日うなされてます。可哀想だから、添い寝してあげます」
「……」
可哀想だから、だと。俺は三十半ばの男で、こいつのボスだぞ。小娘に同情されて添い寝される筋合いなどない。
「……せまい」
「我慢してください」
「お前な……」
俺はいつものように文句を言いかけて、途中で口を閉ざした。
どうしても、あいつを追い払う気になれなかったのだ。背中から伝わってくる夕凪のトントンという規則正しい心臓の音が、俺のさっきまでの悪夢の残滓を、驚くほど急速に洗い流していくのが分かった。
しばらく、二人とも黙っていた。
カーテンの隙間から覗く窓の外では、五月の穏やかな夜風が静かに吹いている。
「……出張の夜のこと」
俺はソファの背もたれをじっと見つめたまま、低く、押し出すように言った。
「あの時、お前を突き飛ばしたこと。……悪かった」
ずっと胸につかえていた謝罪だった。夕凪は答えなかった。
だが、俺の背中に当たるあいつの体温が、少しだけ強くなった気がした。ぎゅっと、密着の度合いが増す。
「……先生」
しばらくして、夕凪がぽつりと言った。
「なんだ」
「私のこと、聞いてもらえますか」
「……話せよ」
顔が見えない暗闇。背中合わせのまま、夕凪が静かに呼吸を整える音がした。
「天野先生は、私と八木先生との関係を勘違いしてます。私と八木先生が男女の関係だと思ったから、あの夜私を突き飛ばしたんですよね」
ギクリとした。黙って、あいつの声だけを聞いた。
「私は八木先生とは寝ていません。一度も、そんな一線は越えていません。八木先生は、私のことを助けてくれた人なんです」
夕凪は、淡々と、だけど祈るようなトーンで言葉を紡いでいく。
「私には、この世界のどこにも……生まれた記録が、なかったんです」
「……っ」
衝撃で、呼吸が止まりそうになった。この世界に、いなかったことにされていた子供。
「16歳で八木先生に出会うまでは、ずっとお家の中にいました。学校というものに通ったことがありませんし、同じ年齢のお友達も一人もいませんでした。お母さんが帰って来なくなって、部屋で一人でいたら、市の職員さんが来て八木先生を紹介してくれたんです。それからずっと、私は八木先生と暮らしました。八木先生が、私の戸籍を作ってくれました。やっと、私も戸籍のある人間になれたんです」
夕凪の細い背骨から、過去の圧倒的な孤独と、それを救った温もりの記憶が振動となって伝わってくる。
「八木先生は、私に勉強を教えてくれて、社会のルールと生活のことを教えてくれて、お料理や、八木先生の好きな歌を教えてくれました。私がかわいいと言った服をたくさん買ってくれて……八木先生との生活は、とっても楽しかったです。八木先生は、私のお父さんで、私を導いてくれる先生で……ときどき、恋人みたいだと思うこともありました」
その言葉が、静かに胸に落ちてきた。
歪んだ支配なんかじゃなかった。そういうことだったのか。
「八木先生が亡くなる前、天野先生を救うように言いました。だから、私は天野先生のことを助けてあげたいです。八木先生も言っていました。天野先生が、私を助けてくれるって」
そこまで一気に話すと、夕凪の声が途切れた。
背中の質量が、急にぐにゃりと重くなる。
「……おい、夕凪?」
返事がない。すやすやと、規則正しい寝息が背中に響き始めた。
俺はゆっくりと身体を反転させた。その動きに引き寄せられるように、眠りかけた夕凪もふらりとこちらへ身体を向けた。
正面から向き合うと、夕凪はキャミソール姿で、本当に無防備に目を閉じている。
「寝やがった……」
俺は思わず、呆れたような溜息をもらした。
「話すだけ話して、なんて勝手なやつだ……」
夕凪の寝顔を見つめながら、俺の胸には、少しだけ苦い思いが込み上げていた。
結局、こいつが俺のところにいるのも、俺を助けようとするのも、すべては八木先生に言われたからなのだ。俺は夕凪にとって、あの偉大な「八木先生」の代用品に過ぎないのではないか。嫉妬が頭をよぎる。
その時、夕凪がむにゃむにゃと唇を動かした。
「……、先生……あたま、撫でてください……」
俺は苦笑し、無言で手を伸ばし、あいつの柔らかい髪の毛をゆっくりと優しく撫でてやった。
静かな声で、俺は問いかける。
「……八木先生に、こうしてもらってたのか?」
夕凪はうとうとと、眠りの深淵に沈み込みながら、小さく呟いた。
「はい……」
(やっぱり、自分は代わりに過ぎないんだな)
そう思い、手を止めようとした、その瞬間だった。
「けど……」
夕凪は目を閉じたまま、そっと俺の胸元に額を押し当ててきた。
「けど……天野先生に、撫でてもらいたかったんです……」
心臓が、今日一番の大きさで跳ね上がった。
八木先生の代わりじゃない。夕凪は、俺のぬくもりを求めてくれていたのだ。
「……そうか」
胸の奥の冷え切っていた空洞が、一瞬で、これ以上ないほどの熱で満たされていく。
夕凪はそのまま、安心しきった顔で深い眠りへと落ちていった。
俺は、愛おしさが胸から溢れそうになるのを堪えながら、あいつの頭をずっと、ずっと優しく撫で続けた。
そして、ゆっくりと顔を近づけ、あいつのピンクがかった柔らかな髪の毛に、そっと唇を触れさせた。
――俺はこの夜、俺の隣で眠るこの愛おしい野良猫の人生を、生涯をかけて守り抜くと、窓の外の静かな夜風に誓った。
俺たちはそのまま、狭いソファの隙間で、お互いの体温を分け合いながら、深い、穏やかな眠りへとついていった。




