瀬尾律子の二律背反
―― 瀬尾律子 視点
「……これで、何度目かしら」
ホテルのきらびやかな化粧室の鏡の前で、私は自嘲気味に呟き、ため息をついた。
鏡の向こうには、いつも事務所で見せているビジネスライクな姿とは似ても似つかない女が立っている。今日のために新調した、シフォン素材の花柄トレンドワンピース。トレードマークの銀縁眼鏡はコンタクトに変え、少し強めのコテで巻いて下ろした黒髪。完璧に「戦える女」を演出したはずだった。
けれど、結果は惨敗。
三十代の婚活パーティーは、いつだって容赦のない市場原理の殴り合いだ。男性たちが群がるのは、決まって守ってあげたくなるような、小柄で、フワフワとした、若い女の子ばかり。身長が170cm近くあり、ただでさえ「法律事務所の弁護士」という隙のない肩書きを持つ私のような女は、男たちのプライドを脅かすのか、遠巻きに眺められるだけで終わる。
一体いつになったら、私は報われるの。
すっかり心が折れ、夕方近い時間に会場のホテルを後にした。ビル風の吹き抜ける通りを一人で歩いていると、ポツポツと冷たいものが頬を叩いた。
「嘘……」
空を見上げる暇もなく、雨はあっという間に激しさを増し、白いカーテンのように視界を遮っていく。天気予報なんて見ている余裕はなかった。傘は持ってきていない。
容赦なく花柄のワンピースを濡らしていく豪雨は、まるで今の私の惨めな心そのものだった。ずぶ濡れになりながら、歩道で立ち尽くした、その時。
不意に、頭上を叩いていた雨の音が消えた。
「え……?」
見上げると、そこには濃紺の大きな傘が差し出されていた。傘の柄を握っていたのは、腕まくりされた見慣れた逞しい腕。
前髪の隙間から、いつもの鋭く冷徹な双眸を覗かせ、シンプルな白シャツに黒のスラックス姿の男が立っていた。
「……瀬尾か。ずぶ濡れじゃないか」
「所長……? なんで、ここに……」
心臓が、耳の奥でドクンと跳ね上がった。まさか、こんな場所で天野先生に会うなんて。
天野先生は少しだけ傘を私の方へと傾け、淡々と言った。
「うちのマンション、ここから近いんだ。寄って行けよ。このままじゃ風邪を引く」
その瞬間、私の頭の中で、少女漫画のようなロマンチックな回路が目覚めかけた。
もしかして、こんなに近くにいたの? 私の運命の人は。いつも職場で冷徹に判例を読み込んでいるあの人が、私の窮地にこうして現れてくれるなんて――。
けれど、理性がすぐに警報を鳴らす。職場のトップのプライベートに踏み込むのは筋違いだ。
「いえ……ご迷惑なので、いいです。適当に雨宿りしますから」
私が遠慮すると、天野先生は困ったように少しだけ目元を緩め、ふっと笑った。
「何言ってる。風邪を引くぞ。いいから来い」
逆らうことを許さない、いつものトップの口調。
私たちは一本の傘の下、肩が触れ合いそうな距離で相合傘をしながら、天野先生のマンションへと向かった。高鳴る鼓動が、激しい雨音に消されていくのを祈るしかなかった。
高級感のあるマンションのエレベーターが、静かに上層階へと登っていく。
密室の中で、天野先生の仄かな石鹸の香りが微かに鼻をくすぐる。私は緊張のあまり、生唾を飲み込んだ。所長の部屋で、二人きり。そんな状況、どう振る舞えば正解なのだろう。
チーン、と音がして扉が開き、天野先生の部屋の前に着く。先生が鍵を開け、ドアを押し開けた。
「ただいまー」
天野先生の声が、誰もいないはずの空間に響く。
私は一拍、耳を疑った。ただいま? 所長は一人暮らしよね?
「おかえりなさーい」
その時、廊下の奥から信じられない声が返ってきた。
現れたのは、薄いキャミソールに短パンという、あまりにも無防備な格好をした夕凪蘭だった。片手に高級そうなアイスのカップを持ち、スプーンをくわえたまま、パタパタと足音を立てて歩いてくる。
夕凪さんは私を見るなり、無邪気に笑った。
「あれっ? 瀬尾さん? あははは、すごーい、ずぶ濡れですよ!」
天野先生は驚く風でもなく、鍵をトレイに放り投げながら言った。
「瀬尾にタオル出してやってくれ」
「はーい♪」
私は完全に真顔になった。いや、脳内では大パニックの嵐が吹き荒れていた。
この二人……同棲してたの!? あの鉄壁の理性を誇る天野先生が、こんな若い女の子と!?
促されるまま、広々としたリビングダイニングへと通される。生活感が適度にある、けれど洗練された空間。
「瀬尾さん、そんな格好じゃ風邪引いちゃいますよ。お風呂、入ったらどうですか?」
夕凪さんが親切に勧めてくれるが、私は激しく首を横に振った。
「いえ、さすがに上司の家のお風呂を借りるわけには……」
「遠慮しなくていいぞ。夕凪、お前の着替えを貸してやれ」
天野先生がキッチンで冷蔵庫を開けながら言うと、夕凪さんは私の身体をぱっと見上げてから、ケラケラと笑った。
「無理ですよー! 私のじゃサイズが違いすぎますもん!」
夕凪さんは150cm、私は170cm近い。
確かに事実だ。こうもハッキリと指摘されると、婚活で負けてきた直後の身としては少しばかりイラッとする。
天野先生は前髪の隙間から、わずかに視線を落として私を見つめ、納得したように頷いた。
「そうだな。じゃあ、俺のでいいか」
渡されたのは、天野先生の私物である、綺麗に洗濯されたグレーのスウェットだった。結局、お言葉に甘えてお風呂を借りることにした。
湯船に浸かりながら、私は必死に頭を整理しようとした。けれど、考えれば考えるほど意味がわからない。
風呂を上がり、お借りしたスウェットに身を包んでリビングに戻ると、そこにはおそろしく奇妙な光景が広がっていた。
天野先生はソファに深く腰掛け、鋭い目で経済誌を読み進めている。その足元、毛足の長いカーペットの上では、夕凪さんが完全に寝転がった状態で、ハーフツインの髪を揺らしながらスマホゲームに興じていた。
「上がったか。麦茶でいいか?」
天野先生が視線だけをこちらに向けて訊ねる。
「あっ、お構いなく……」
「座れよ。服が乾くまでまだ時間がかかるからな」
洗面所の奥からは、ドラム式洗濯機が私の花柄ワンピースをゴウンゴウンと激しく回す音が聞こえてくる。
天野先生は冷蔵庫を開け、お茶のポットを手に取った瞬間、ピタッと動きを止めた。その背中から、明らかに不機嫌なオーラが立ち上る。
「おい、夕凪。麦茶が無いぞ。最後に飲んだ奴が新しく作るってルールを決めただろう」
夕凪さんは床に寝転がったまま、画面から目を離さずに口を尖らせた。
「えー? 最近私ばっかり作ってますよー。たまには先生が作ってください!」
「ったく、お前は……」
天野先生は盛大なため息をつきながらも、文句を言いつつお湯を沸かし始めた。
そして、私の方を振り返る。
「瀬尾、コーヒーでいいか?」
「あ……はい。いただきます」
私は一人掛けのソファに腰掛け、差し出されたマグカップを握りしめた。
……私は今、一体何を見せられているのだろう。
天野先生から少し離れた位置で、たまに仕事の雑談を交わす。けれど、その間も私の神経は、二人の異常な「距離感」に釘付けになっていた。
その時だった。
床でゲームを終えた夕凪さんが、むくりと起き上がったかと思うと、ソファに座っている天野先生の背後へと迷いなく歩み寄った。そして、何の躊躇もなく、天野先生の首筋に後ろからガバッと抱きついたのだ。
私はコーヒーを吹き出しそうになり、目を見開いた。
だが、驚いたのは私だけだった。天野先生は表情一つ変えず、経済誌をめくりながら平然と言い放った。
「なんだよ、重いぞ。くっつくな」
「先生〜、私、麻辣湯ってやつを食べてみたいです! 瀬尾さんもいるし、今夜みんなで夕飯食べに行きましょうよ〜」
夕凪さんは天野先生の広い肩に顎を乗せ、ハーフツインをピコピコと揺らしながらおねだりしている。
「マーラータン? ……また辛そうな名前だな。ラーメンの類か?」
天野先生が怪訝そうな顔をするので、私は見かねて口を挟んだ。
「若い女性の間で流行している、春雨を使った辛いスープのことですよ。具材を自分で選べるんです」
天野先生はなるほど、と呟き、それからリビングの大きな窓の外へ視線を向けた。雨は未だに激しくガラスを叩き、止む気配はない。
「瀬尾もいるんだぞ。お前の要求ばかり押し付けるな。外はすごい雨だ。今日は俺が適当に作る。そのマーラータンとやらは、今度連れて行ってやるから」
「え〜、ケチ〜」
夕凪さんはむうっと頬を膨らませたが、それ以上は文句を言わなかった。そのままずるずると天野先生の背中にしがみついたまま、ぐったりとぶら下がっている。
天野先生は立ち上がりながら私を見た。
「瀬尾、夕飯食べて行くだろ?」
……もう、限界だった。弁護士としての冷静さをかなぐり捨て、私はずっと胸の中で渦巻いていた疑問を、ストレートにぶつけることにした。
「あの……お二人は、いつから交際されているんですか?」
背中にしがみついたまま、夕凪さんが小首を傾げてあっさりと答えた。
「付き合ってないですよ?」
天野先生も、夕凪さんをぶら下げたまま冷凍庫から鶏肉を取り出しながら、至極当然といった口調で言葉を重ねる。
「ああ。俺たちは一緒に住んではいるが、そういう関係じゃない。八木先生から、こいつの面倒を頼まれているだけだ」
「…………」
私は手元のコーヒーを一気に飲み干し、心の中で絶叫した。
じゃあ、なんでさっきからそんなに当たり前みたいにイチャイチャしてるのよ、このバカップルどもがーーーー!!
外の雨音は、なおも激しく響いていた。
けれど、この部屋の空気は、すでに私の理解を遥かに超えた場所にあった。私はただ、天野先生が手際よく刻むネギの音を、遠い目で眺めることしかできなかった。




