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麻辣湯、その大いなる混沌への誘い

雨の日の珍事から、数日が過ぎていた。

時計の針が18時を回るのと同時に、天野法律事務所の空気は目に見えて弛緩し始める。

弁護士である俺に定時など存在しない。今夜もデスクには処理を待つ企業案件の資料が山をなしている。

だが、アソシエイト弁護士の瀬尾や、パラリーガルの猿渡にとってはここが区切りだ。いつもなら溜息交じりに書類を片付け始める時間帯だが、今夕ばかりは違った。


「仕事終わりっ! マーラータン! 麻辣湯!」


給湯室の方から、弾んだ声が響いてくる。

夕凪だった。トレードマークのピンクがかった髪のハーフツインをぴょこぴょこと小刻みに揺らしながら、彼女は早くも退勤の準備を完了させている。


その姿を見て、俺はふと数日前の嵐の夜、我が家のリビングで彼女が俺の背中にぶら下がりながら「食べてみたい」とおねだりしていた光景を思い出した。

「そういや、食べたがってたな。……よし、みんなで行くか」


俺が椅子から立ち上がりながらそう告げると、事務所の面々は一様に驚いたような顔をした。

特に瀬尾は、あの夜の「付き合ってないですよ?」という夕凪の爆弾発言を思い出したのか、銀縁眼鏡の奥の目を微かに泳がせている。


「あ、俺はパスで。これから『るなち』のバースデーイベントがあるんで!」


荷物をまとめた猿渡が、カバンを肩にかけながら軽い調子で手を挙げた。


25歳、一応は弁護士を目指して勉強中の身の癖に、頭の中は相変わらずコンカフェ嬢のことでいっぱいのようだ。


「……猿渡。そのイベントとやら、この間も行ってなかったか?」


「何言ってるんすか。るなちは可愛いから、何回も誕生日があるんすよ! 可愛いは正義なんすよ!」


悪びれもせずに言い放ち、猿渡は「お疲れっしたー!」と風のように去っていった。

(そんなわけあるか。生物学的な法則を無視するな)

内心で悪態をつきながら、俺は視線を瀬尾へと向けた。


「瀬尾は行くだろ?」

「わ、私は……」

瀬尾は一瞬、戸惑ったように言葉を詰まらせた。


あの夜、俺のマンションで奇妙な同居生活を目撃して以来、彼女の俺たちに対する警戒心(あるいは好奇の目)は最高潮に達している。

すかさず、夕凪が瀬尾の元へと駆け寄り、その細い腕を掴んだ。


「行きましょう! 瀬尾さん!」


キラキラと星でも宿しているかのように目を輝かせる夕凪。

あの嵐の夜、一緒に夕飯を食べたことで、夕凪はすっかり瀬尾に懐いている。

その無垢な猛プッシュに、30歳の冷徹弁護士も形無しだった。


「……そうね。ご一緒するわ」

瀬尾は諦めたように溜息をつき、眼鏡の位置を直した。


一行は猿渡と別れ、都内でも特に人気だと噂される麻辣湯の専門店へと向かった。


現地に到着して、俺は思わず眉をひそめた。店の外には、建物の壁に沿って長い行列が伸びている。

しかも、並んでいるのは見事に若い女性ばかりだ。35歳、スーツ姿の男が紛れ込むには、いささか敷居が高すぎる空間だった。


「すごい行列だな。女性達ばかりだが、俺もいて平気なのか?」


「大丈夫です!おじさんにも人気なんですよ♪」


夕凪が事も無げに笑う。


「……今、俺の事をおじさんと言ったか?」


「あっ! 列が進みましたよ! さっ、行きましょう♪」


あからさまに話題を逸らし、夕凪は俺の袖を引いて前へと進む。確信犯だな、こいつは。


やがて店内に案内されると、独特のスパイスの香りが鼻腔をくすぐった。

初めて足を踏み入れる空間に、俺も、そして瀬尾も自然と周囲をキョロキョロと見渡してしまう。


この店のシステムは独特だった。

まず、入り口で大きなボウルとトングを受け取る。

ショーケースには数十種類もの具材がずらりと並んでおり、そこから自分の好きなものを好きなだけバイキング形式で選び、最後にレジでスープの辛さを指定して重さごとに会計する、という流れだ。


「わ〜い! ブンモジャ〜!あとは〜お肉と〜」


夕凪は迷うことなく、トングをカチカチと鳴らしながらヒョイヒョイと材料をボウルに放り込んでいく。その手つきには一切の躊躇がない。


一方で、瀬尾のボウルを盗み見ると、チンゲン菜やキクラゲといった野菜類に加え、海老やイカが綺麗に並んでいた。

海鮮を中心に攻める算段らしい。実に理性的で彼女らしい選択だ。


俺はといえば、日頃のジム通いによる肉体管理を意識し、高タンパク・低糖質をテーマに据えていた。

白菜、エリンギ、舞茸といった野菜ときのこ類を中心とし、麺は糖質ゼロ麺を選択する。アスリートのようなストイックなボウルが完成した。


しかし、隣の夕凪のボウルを見て絶句した。


ブンモジャ、蟹団子、何種類もの春雨、豚肉、ラム肉、きのこ、さらには中華麺。ボウルの底が見えないほどの盛り沢山ぶりだ。


「……夕凪、それはいくら何でも入れすぎだ。残すなよ」


「大丈夫ですって! あ、これ何だろう……かものち?」


夕凪はショーケースの一角にあった、茶色いゼリー状の物体――鴨の血を固めた塊(鴨血)を見つめ、「先生、これ食べてみてくださいよ〜」と、俺のボウルに勝手に放り込んできた。


「やめろ、勝手に得体のしれないものを入れるな」


「美味しいですよ?たぶん!」


結局、押し問答の末に俺の糖質ゼロデッキに「鴨血」が強制追加されることになった。


レジへ進み、辛さを指定する。


瀬尾は「辛さ無し(白湯)」。俺は無難に「辛さ2(普通)」。

そして夕凪は、事も無げに「辛さ5(最大)」を注文した。

レジの店員が一瞬、ギョッとしたように夕凪を見たのが印象的だった。


案内された席に着き、しばらく待つと、それぞれの器が到着した。


瀬尾の前には真っ白な優しいスープ。俺の前には程よく赤みがかったスープ。

夕凪の前に置かれた器は、地獄の業火のようにどす黒い赤色をし、禍々しい唐辛子と花椒の香りを放っていた。


「夕凪さんの、凄く辛そう……」

瀬尾が引き攣った笑みを浮かべる。


「食べ切れるのか? すごい量だぞ」

俺の指摘に、夕凪はハーフツインを誇らしげに揺らした。


「大丈夫です! 今日はこのために、お昼から何も食べてないですから! いただきます!」

三人がそれぞれ箸をつける。


「……ん! おいしい」

瀬尾が嬉しそうに目を細める。白湯スープのコクが口に合うようだ。


「からっ! けどおいしい〜!」

夕凪は真っ赤なスープにまみれた太い春雨をハフハフと口に運び、実に見事な食べっぷりを見せている。


二人の様子を見届け、俺も自分の器から、スープを含んだ糖質ゼロ麺を一口、口へと運んだ。


――その、瞬間だった。


脳髄を、凄まじい衝撃が駆け巡った。

(……ッ!!!)

それはまるで、ある種の覚醒だった。すべての記憶を取り戻し、世界の真理に到達したかのような、圧倒的な全能感が脳内を支配する。

突き抜けるようなホワジャオ(花椒)の鮮烈な痺れ。何十種類ものスパイスが複雑に絡み合う奥深いコク。

何より、自分が独自のロジックで選び抜いた、厳選された具材の数々が、スープの熱によって完璧な調和を生み出している。


「……なるほど。これは『料理』という概念を借りた、高度な知的ゲームだな」


「へ……?」

箸を止めた瀬尾が、呆気にとられたような声をあげる。だが、俺の思考の暴走は止まらなかった。


「いいか、瀬尾、夕凪。この麻辣湯の真髄は、限られた予算と容積の中で、いかに効率的な『最高のデッキ』を組み上げるかにある。

ベースとなるスパイス(環境)に対し、食物繊維、タンパク質、脂質といった各カード(具材)のシナジーを考慮し、自分の理想とする戦闘スタイル(満腹度と栄養価)に合わせて最高のビルドを探し求める……。つまり麻辣湯とは、現代における最も洗練された『デッキ構築型ゲーム』なんだよ!」


俺は前髪をかき上げ、法廷での最終弁論さながらの熱量で、一心不乱にその理論を捲し立てた。


「そ、そうなんですね……」

瀬尾は完全に引き、哀れみすら混じった目で俺を見ている。


「あはは、先生、すっごく気に入ったんですね〜」

夕凪だけが、いつも通り無邪気に笑っていた。


俺はハッと我に返り、小さく咳払いをして、再び麺をすすり始めた。


それからしばらくして。


俺と瀬尾は、自分の組んだデッキ(器)を綺麗に完食していた。


だが、向かいの席からは、さっきまでの勢いが嘘のように箸の動きが止まった夕凪の姿があった。


「……お腹いっぱいかも、です……」


夕凪は器の中にまだ大量に残った春雨と肉を見つめ、潤んだ上目遣いで、縋るように俺を見つめてきた。

ハーフツインのお団子が、情けなくシュンと垂れ下がっている。


「調子に乗って入れすぎるからだ。俺は手伝わないぞ。自己責任だ」


冷たく突き放す。当然だ。あれほど警告したというのに、欲望のままにトッピングを盛るからこうなる。


「でも……残したら、お店の人に悪いかも……」

夕凪はさらにうるうると瞳を揺らし、じっと俺を見つめてくる。ずるい奴だ。


「……はぁ」

俺は本日一番の大きな溜息をつくと、無言で夕凪の器を引き寄せた。


瀬尾がなにか言いたげな目でこちらを見ているのが分かったが、特に気に留めなかった。

俺は箸を使い、夕凪の器から、残った具材を自分の空の器へと移し始めた。


「あっ、お肉は取らないでください!」


「我が儘を言うな。肉だけ食べて炭水化物を残すなど許さん」


俺は夕凪の制止を無視し、真っ赤に染まった豚肉と春雨をまとめて俺の器へと移し、それを一気に口へと放り込んだ。


――次の瞬間、俺の気管を、純粋な『暴力』が襲った。


「――ッ、ゴホッ! ゲホッ、ゴホッ……!!」

あまりの激痛のような辛さに、俺は猛烈に咽せ返った。


辛さ5。それは、大人の男のプライドや、デッキ構築のロジックなどが一切通用しない、文字通りの『兵器』だった。


「先生!? 大丈夫ですか!? はい、お水!」


慌てて夕凪がコップの水を差し出してくる。俺はそれをひったくるようにして飲み干したが、喉の奥の灼熱は一向に引かない。


涙目で咳き込む俺の姿を見て、瀬尾はとうとう堪えきれずにクスクスと笑い始め、それにつられ夕凪も楽しそうに笑っている。

激辛の痛みに悶絶しながら、俺は前髪をかき上げ、胸の奥で小さく息を吐いた。

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