ひかり消えゆく夏に
夕凪がまともに事務所へ出勤してこなくなったのは、八月に入ってすぐのことだった。
連日、容赦ない猛暑が東京のアスファルトをじりじりと焼き、冷房の効いた執務室にいても目眩がしそうな夏の盛り。かつてこの事務所の元ボスであり、俺の恩師でもある八木先生が、自宅で突然倒れて緊急搬送されたという報せが飛び込んできたのだ。
一命は取り留めたものの病状は芳しくなく、八木先生の看病のために、夕凪は「付き添いをさせてください」と頭を下げ、それきり事務所を長期で休むようになった。
八木先生には、奥さんこそ先立たれているが、俺と同世代くらいの成人したお子さんがいる。だが、お互いに仕事が忙しいこともあってか、病院に付きっきりで面倒を見ているのは、どういうわけか親族ではなく新人の夕凪だった。
八木先生が倒れてから、1週間ほど経った、ある日の午後。
俺は裁判所での手続きを終えた足で、時間を見つけて八木先生が入院している都内の大病院へと足を運んだ。
冷房が静かに唸る無機質な病棟。教えられた個室のドアを軽くノックし、静かに押し開ける。
「――八木先生」
真っ先に目に飛び込んできたのは、ベッドの脇に置かれた丸椅子に、小さく背を丸めて座っている夕凪の姿だった。チャイナドレスもパンダ耳も外した、見慣れない地味な私服姿で。
(……先生の前では、あのふざけた格好はしないんだな)
「おや、天野くんじゃないか」
ベッドの上で上半身を起こした八木先生が、穏やかな声を上げた。
1ヶ月前の歓迎会で、タクシーに乗せた時よりも、明らかに身体が二回りほど小さく痩せ細っている。それでも、蓄えた白い髭の奥にある顔は、いつもと変わらないにこやかなものだった。
「わざわざお見舞いに来てくれたのかの。悪いのぅ、忙しい時に」
「いえ……。八木先生、思ったよりはお元気そうじゃないですか。顔色も悪くない」
俺は努めて普段通りの、少しぶっきらぼうなトーンで声をかけた。ここで同情の顔を浮かべることこそ、このプライドの高い老弁護士に対して失礼だと思ったからだ。
「かっかっか、そう見えるか。なら一安心じゃて」
先生は嬉しそうに目を細める。
俺は道中で買ってきたフルーツの詰め合わせの袋を、夕凪の手元へと差し出した。
「夕凪。これ、先生と二人で食べてくれ」
「……あ。天野先生、ありがとうございます」
受け取った夕凪は、蚊の鳴くような小さな声で頭を下げた。やはり、夜通しの看病で疲れ果てているのだろう。いつもの生気に満ちた、どこかふてぶてしいほどのマイペースさは完全に消え失せ、痛々しいほどに元気がなかった。
「夕凪、お前もしっかり飯は食ってるか? 倒れたら元も子もないぞ」
「はい……大丈夫、です」
短いやり取りの後、ベッドの上の八木先生が、愛おしそうに夕凪を見つめてから俺に視線を戻した。
「夕凪くん。すまんが、少し冷たい水でも買ってきてくれんか。天野くんと、少し男二人の昔話がしたくてのぅ」
「わかりました。……失礼します」
夕凪は素直に頷き、静かに病室を出ていった。カチャリとドアが閉まり、部屋には俺と先生の二人だけになる。
「座りなさい、天野くん」
促されるまま、俺は夕凪が座っていた椅子に腰掛けた。
「こうして二人だけでゆっくり話すのも、本当に久しぶりじゃの〜」
八木先生は天井を仰ぎ、懐かしそうに目を細めた。
「お前さんがまだ修習生で、わしの事務所に初めてやってきた時のことを思い出すよ。あの頃のお前さんは、正義感ばかりが空回りして、尖ったナイフのようじゃった」
「……昔の話は勘弁してください。黒歴史です」
俺が苦笑すると、先生はフフと笑い、それから、少しだけ真面目な、どこか寂しげな目をして俺を見つめた。
「それから……お前さんの奥さんが亡くなった時のことも、昨日のことのように覚えとる。あの時の、すべてを失ったようなお前さんの顔……。狂ったように仕事に打ち込んでいてね、周りの声も届かないようで、本当に見ていられんかったよ」
突然の妻の話に、俺の胸の奥がキュッと締め付けられる。八木先生もまた、若い頃に最愛の奥さんを亡くしている「同類」だった。だからこそ、あの時期の俺の暴走を、誰よりも心配してくれていたのだ。
「天野くん。夕凪くんのことを、頼んだよ」
先生は細くなった手で、ベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。
「あの子は、きっとお前さんを救ってくれる。……わしもな、あの子に救われたんじゃ。お前さんもきっと、そうなるよ」
「……先生?」
俺は眉をひそめた。言葉の要領が、いまいち得られなかったからだ。
身元のよく分からないあの夕凪に、何か複雑な事情があるのだろうということは察していた。だから、元ボスの遺志として、彼女のこれからの生活や面倒を引き継ぐ――それなら痛いほど理解できる。だが、なぜそのポンコツな新人が、俺を「救ってくれる」なんて話になるんだ?
俺が問い返そうとした、その時だった。ドアが静かに開き、夕凪が戻ってきた。
手にはミネラルウォーターのペットボトルが握られている。長話をして病人の体に障るのではないかと、心配になって予定より早く戻ってきたのだろう。その健気な気遣いが、今の俺にはただ微笑ましく見えた。
「……よし。じゃあ先生、俺はこれで失礼します。また顔を出しますから」
俺は立ち上がり、八木先生に向かって一礼した。
「うむ。今日はありがとう、天野くん。こうしてお前さんと話せて、本当に良かったよ」
先生は、心底満足したような、どこか全てを悟ったような完璧な笑顔で、俺を送り出してくれた。
病室を出ると、夕凪が静かにドアを閉め、廊下まで見送るようについてきた。夏の午後の陽射しが、廊下の大きな窓から白い床に長く伸びている。
「……天野先生。あの、私……まだもう少し、お仕事お休みします」
申し訳なさそうに俯く夕凪に、俺は優しく首を振った。
「ああ、構わん。事務所のことは瀬尾も猿渡もいるから気にするな。それより……」
俺は、病室のドアの向こうに目をやった。
「八木先生、やっぱり……あまり良くないのか?」
その問いに、夕凪の大きな瞳に、じわっと透明な涙が溢れて溜まった。けれど、彼女は必死にそれを堪え、頬へは一滴も零さなかった。唇を噛み締め、ただ小さく、コクンと頷く。
その張り詰めた横顔を見て、俺は胸が痛くなり、気づけば彼女の小さな肩に、ポンと手を置いていた。
「……そうか。八木先生を、頼むな」
「はい……っ」
――このお見舞いから、わずか1週間後。八木兼人先生は、夕凪蘭に看取られながら、静かにこの世を去った。




