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ぬるいコーヒーと勘違い

夕凪がうちの事務所にやってきて2ヶ月。あのカオス極まる六月の歓迎会から、早くも1ヶ月が経とうとしていた。


季節は七月。容赦ない夏の陽射しがアスファルトを焼く季節になっても、うちの新人事務員は相変わらずパンダ耳に赤いミニスカチャイナという、涼しげすぎるにも程がある格好で出勤していた。


雑用に関しては、最近ようやく「郵便物の仕分け」や「シュレッダーかけ」、それから「お茶の淹れ方」といった基本を覚えたところだ。もっとも、その過程で重要な判例集にシュレッダーの刃を噛み込ませそうになるなど、俺の胃にいくつか新しい穴を開けてくれたわけだが……。


そんな夕凪だが、最近、仕事終わりによく猿渡にコーヒーを淹れてやっているようだった。


その日も、定時を少し過ぎた頃。


「猿渡さん、どうぞ」


夕凪がトレイに乗せたマグカップを、猿渡のデスクへそっと置いた。


「お、ありがとー!」


猿渡はスマホの画面を見たまま、嬉しそうに手を振る。夕凪は特に表情を変えることもなく、そのまま足早に奥の給湯室へと戻っていった。


俺はデスクからその様子を盗み見ながら、心の中で小さく首を傾げた。


(あいつら、いつの間にあんなに仲良くなったんだ……?)


歓迎会の時、夕凪はあんなに八木先生にべったりだったはずだ。それが今や、帰り際に毎日コーヒーを淹れてやる仲。若い男と女だ、何か心境の変化でもあったのだろうか。


――それから、数日後のことだ。


瀬尾が裁判所へ出払い、夕凪も買い出しに出て、事務所に俺と猿渡の二人きりになる時間があった。


「いや〜天野先生、参ったな〜。ぶっちゃけ、ちょっと困ってんすよね」


猿渡が手元の資料をトントンと机に叩きつけながら、だらしなく口元を緩ませて話しかけてきた。


「何がだ」


「いやね、夕凪さん、絶対俺のこと好きなんすよ。毎日コーヒー淹れてくれるし。ぶっちゃけ超可愛いし揺らぐんすけど、俺にはるなちがいるからな〜! 一途な男ってツラいわー。どう思います? 天野先生!」


「……俺にはわからん。そこまで自信があるなら、本人に直接確認してみたらどうだ?」


俺はパソコンの画面から目を離さずに、極めて冷淡に返した。どうせこいつのいつもの脳内お花畑だろうと、相手にするのも馬鹿馬鹿しかったからだ。


だが、さらに数日後。今度は俺と夕凪の二人きりになるタイミングが訪れた。


「……あの、天野先生」


夕方の執務室で、夕凪がファイルを持ったまま、おずおずと俺のデスクに近づいてきた。


「どうした?」


夕凪はいつになく言いづらそうに、パンダの耳を心なしかペタンと寝かせ、小さな声を絞り出した。


「……猿渡さんが、最近なんだか距離が近くて……給湯室でやたら話しかけてくるんです。ちょっと、怖いです」


「……ん?」


俺は思わずペンを止めた。「お前ら、仲良くなったんじゃないのか? 毎日、帰り際にコーヒーを淹れてやってるだろう」


「違います、あれは……っ」


夕凪はぶんぶんと首を振ると、目に涙を浮かべながら、その「毎日コーヒーを淹れる羽目になった理由」を俺に白状し始めた。


彼女の話を聞きながら、俺の脳内には、その日の給湯室の光景がまざまざと再現されていった――。



それは1ヶ月ほど前の、ある日の仕事終わりのこと。


「……よし、仕事終わった。給湯室の掃除をして帰ろう」


夕凪がそう呟いて奥の給湯室へ向かうと、そこには先客がいた。猿渡がスマホでゲームをしながら、電子ケトルの前でお湯が沸くのを待っていたのだ。コーヒーを一杯飲んでから帰るのが、彼の日課らしかった。


夕凪は心の中で、(またいる……邪魔だな)と溜息をついた。


いくらパンダチャイナを着ていようが、彼女はまだ入ったばかりの新人だ。先輩である猿渡に「掃除をしたいのでどいてください」とは口が裂けても言えない。


どうにか穏便に退いてもらう方法はないか。そう考えた夕凪は、ひとつの妥協案を思いつく。


「コーヒーのお湯、沸かしてるんですか?」


猿渡は目線をスマホの画面から一切外さずに、「んー、そー」と生返事を返した。


「よかったら、私がコーヒー淹れますよ」


「えっ、マジで? いいの? ありがと〜!」


猿渡は単純に喜び、ゲームの画面に熱中したまま、そそくさと隣の執務室の自分のデスクへと戻っていった。


(よし、これでやっと掃除ができる)


夕凪はすぐに給湯室の清掃に取りかかった。電子レンジとコンロの汚れを軽く拭き取り、シンクのゴミをネットごと処理して、ピカピカに磨き上げる。


「……ふぅ、終わった」


掃除を終えた夕凪がふとケトルを見ると、まだお湯は沸ききっていなかった。ボコボコと小さな気泡が上がり始めたくらいの、ぬるい状態だ。


いつもなら沸騰するまで待つところだが、夕凪は一刻も早く帰りたかった。


「……まあ、いいか」


彼女は、まだ完全に沸ききっていない、お世辞にも熱いとは言えないお湯をドリップバッグにドボドボと注いだ。そして、それを執務室の猿渡の元へと持っていったのだ。


「猿渡さん、コーヒーどうぞ」


「ありがと!」


猿渡は相変わらず画面を見たまま、ぬるいコーヒーを受け取る。夕凪はその姿を確認するや否や、(……帰ろ)と自分のバッグを掴んで事務所を後にしたのだった。



「――それからは、毎日、帰り際に必ず猿渡さんが給湯室の前にいるので。早く掃除をして帰りたくて、毎日コーヒーを淹れてあげてます……」


夕凪は涙目で、俺にそう一気にまくし立てた。


俺は完全に真面目な顔になった。


こういう時、何と言えばいいのか。頭の中が一瞬、白くなった。


「夕凪」


「はい……」


「それは、お前の自業自得だ」


俺は極めて冷静に告げた。「猿渡を勘違いさせるような紛らわしい行動をとるな。……だが、猿渡には俺から言っておく。もう怖がる必要はない」


「……はい」


夕凪は少し怒られたことでショボンとなり、頭のパンダ耳をへにゃりと下向きにさせた。少しだけ哀れだったが、これ以上あのパラリーガルを暴走させるわけにはいかない。


翌日。


仕事終わり、定時を過ぎた給湯室には、案の定、猿渡がスマホゲームを片手にお湯が沸くのを待っていた。


そこへ、俺がゆっくりと足を踏み入れる。


「あっ、天野先生! お疲れ様です!」


猿渡が呑気に笑顔を向けてくる。


「夕凪なら、もう帰ったぞ」


「えっ、そうなんすか? 折角コーヒー淹れてもらえると思ったのに……」


本気で残念そうな顔をする猿渡に、俺は現実という名の冷水を容赦なくぶっかけることにした。


「猿渡。彼女がお前に好意を持っているというのは、100%お前の勘違いだ」


「え……っ?」


「夕凪は、仕事終わりに早く給湯室を掃除して帰りたいだけだ。お前がいつまでもそこに居座るから、どいてもらうために仕方なくコーヒーを淹れていたに過ぎん」


猿渡は雷に打たれたような顔になり、持っていたスマホを落としそうになった。


「えっ……うそ、そうなんすか……?」


大きなショックを受けている様子の猿渡だったが、ふと、何かを思い出したように自分の顎に手を当て、ブツブツと呟き始めた。


「いや、でも確かに……言われてみれば、最近夕凪さんが淹れてくれるコーヒー、めちゃくちゃぬるいっていうか、後半ほとんどただの水でしたわ……」


「…………」


俺は絶句した。


こいつ、沸騰すらしていない水同然のコーヒーを、文句ひとつ言わずに毎日ありがたがって飲んでいたのか。その圧倒的な鈍感さとポジティブさに、いっそ恐怖すら覚える。


「……いいから、仕事終わりは早めにそこを退いてやれ。あと」


俺は給湯室のシンクを指差した。


「今日はお前がここを掃除して帰れ」


「えーーーっ!? マジすか!? わかりましたよぉ……」


ガチで凹んだ猿渡をその場に残し、俺は自分のデスクへと戻った。


夕凪の冷徹な時短テクニックも凄まじいが、水同然のコーヒーを純愛の証だと信じ込んでいた猿渡の脳みそも大概だ。


七月の夜風が窓から吹き込んでくるのを感じながら、俺は自分のこめかみをそっと揉みほぐした。八木先生、あなたの置いていった爆弾は、毎日違う場所で爆発しています。


それから1ヶ月後だった。八木先生が倒れたのは。

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