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夜風と、濃いめのハイボール

時間が来て、俺たち五人はカラオケボックスを退店した。駅前へと続く夜道に出ると、六月の少し湿った夜風が、さっきまでの部屋の熱気とカオスな余韻をゆっくりと冷ましていく。


「天野くん、今日は本当に楽しかったの〜。ありがとう」


白い髭を揺らしながら、八木先生がふと思い出したように懐から白い封筒を取り出し、俺に差し出してきた。


「これ、次の店で使ってくれんか」


「いえ、八木先生。今日は夕凪の歓迎会ですし、俺が言い出したことですから。先生からお金をいただくわけには――」


俺が一回断ろうとすると、八木先生はフフと悪戯っぽく笑って、俺の手の中に無理やり封筒を握らせた。結構な厚みがある。


「いいから、取っておきなさい。一度出したものは引っ込められんのが、わしの数少ないポリシーでな」


「……すみません。ありがたく頂きます」


恩師の頑固さをよく知っている俺は、それ以上固辞するのをやめ、素直に懐に収めた。


「八木先生、ごちそうさまです!」


「先生、ありがとうございました!」


後ろで猿渡と、ようやく涙の引いた瀬尾がぺこりと頭を下げる。


「うむ。じゃあ、わしはこれで帰るとするよ」


八木先生がそう言って歩き出そうとした、その時だった。


「先生が帰るなら、私も帰ります!」


夕凪がすかさず八木先生の袖を掴んだ。大真面目な顔をしている。


「これこれ、今日の主役は蘭くんだよ。みんなとまだいなさい」


八木先生が困ったように眉を下げて諭す。


「でも、先生が心配なので……一緒に帰ります」


「何を言うとる。君はこれから、ここでお世話になるんだよ。いつまでもわしにくっついておらんで、天野先生たちとしっかり親睦を深めなさい」


優しくも、もっともらしい説教を口にする八木先生。


「……でも」


それでもまだ納得がいかないようで、夕凪は不満げに唇を尖らせている。このままでは話が進まない。見かねた俺は、二人の間に割って入った。


「よし、わかった。俺が八木先生を自宅まで送り届けるよ。夕凪、それでいいだろ?」


所長である俺が直々に送り届けると言えば、文句はないはずだ。夕凪は心底納得がいかないという風に、しばらく俺と八木先生を交互に見つめていたが、やがて小さく肩を落とした。


「……はい」


「え〜、天野先生帰っちゃうんですか〜? 盛り上がってきたのに!」


案の定、猿渡がブーブーと不満の声を上げる。


「すぐに戻る。お前らは先に次の店に入っててくれ。後から行くから」


「分かりました。後でお店の場所、天野先生の携帯にメールしますね」


瀬尾がそう言ってスマートフォンを取り出した。カラオケで泣きはらした目元はまだ少し赤いが、その声はいつも通り冷静だった。どうやら感情の切り替えだけは早いらしい。


「ああ、頼む」


三人の部下に見送られながら、俺は八木先生を促して、駅前のロータリーにあるタクシー乗り場へと向かった。東京の駅前は夜でも明るく、流しのタクシーが数台、綺麗に列を作って客を待っている。


歩き出しながら、背後から三人のお喋りが遠ざかっていくのが聞こえた。


「猿渡くん、次はどこに行くの? 私は少し、静かなバーにでも行きたいのだけれど……」


「お、いいっすね瀬尾さん! じゃあ俺がとっておきのバー知ってるんで、そこにしましょう!」


そんな声を背中で聞きながら、俺は八木先生を先頭のタクシーへと案内した。ドアが自動で開いた、まさにその瞬間。


「やっぱり私、八木先生を見送ってきます――!」


遠くから、夕凪の叫び声が響いた。


直後、夜の駅前通りに、タッタッタッと激しくアスファルトを蹴る足音が近づいてくる。


俺と八木先生が同時に振り返ると、そこには、肩を大きく上下させて息を整えている夕凪が立っていた。全力疾走してきたらしく、私服姿のまま少し乱れた格好で俯いている。


「……本当に、困った子じゃの〜」


八木先生は「参った」というように八の字の眉をさらに下げ、白髭を撫でた。当の夕凪は、先生に叱られると思ったのか、服の裾を握りしめて小さく俯いている。


この執念、いや、この二人の仲の良さは一体なんなんだ……。1ヶ月経っても、俺にはこの二人の精神的な距離感が未だに掴めずにいた。だが、この頑固な娘がここまでして追いかけてきたのだ。今さら引き剥がすのも野暮というものだろう。


「……よし、わかった。夕凪、お前が八木先生を家まで送っていってくれ」


「……! はいっ!」


夕凪はぱっと顔を輝かせた。


俺は二人が並んでタクシーの奥へと乗り込むのを確認し、ドアが閉まるのを見送った。走り去るテールランプを眺めながら、俺は本日何度目か分からないため息を夜空に逃がした。


結局あの二人は、俺には計り知れない何かで繋がっているのだろう。それが何なのかは、まだ分からない。


「さて……戻るか」


先ほど別れたカラオケ店の前に戻ってみたが、当然、猿渡と瀬尾の姿はもうなかった。代わりに、俺のポケットの中でスマートフォンが短く震えた。瀬尾からのメールだ。画面を開くと、丁寧な挨拶文などは一切なく、ただ見慣れない住所の文字列と、店の名前だけがぶっきらぼうに記載されていた。


俺はマップを起動し、その住所を頼りに夜の街を歩いた。駅から少し離れた、雑居ビルの地下へと続く階段。壁にはお洒落なネオンの看板がかかっている。


(瀬尾のやつ、静かなバーでも見つけたのか)


そう思いながらドアを押し開け、中に入った瞬間――俺は激しい目眩を覚えた。


有線から流れる打ち込みのポップス。ピンクのネオンに照らされたカウンターの向こうで、今風の衣装を着た女の子たちが、それぞれの客と楽しそうに話し込んでいる。


――ガールズバーだった。


「あ! 天野先生! こっちこっち!」


カウンターの端から、猿渡がアホみたいに嬉しそうな顔をして手を振っていた。俺は頭痛をこらえながら歩を進め、猿渡の隣の椅子にドカリと腰を下ろした。そのまま、隣の席で完全に表情の死んだ女性弁護士を一瞥し、猿渡に低い声をぶつける。


「おい、猿渡。瀬尾もいるんだぞ。もうちょっと店を考えろ」


「所長、これは完全にセクハラ案件よ……!」


瀬尾が、恨みがましい目で俺と猿渡を睨んできた。


「私は確かに『バーに行きたい』とは言ったわ。でも、ここは……私の求めていた『静かなバー』とは方向性が違いすぎるでしょう……!?」


「だっていきなり静かな店に行ったら、瀬尾さんまたカラオケの曲思い出して泣いちゃうかもしれないじゃないすか!」


猿渡は悪びれもせず、ビールグラスを片手に信じられない言い訳をのたまう。


「それに見てくださいよ先生! 実はここ、俺の最愛の推しの『るなち』が働いてる店なんすよ! コンカフェから転生してきたばっかで!」


「いらっしゃいませー!」


その時、カウンターの奥から、見るからに今風の可愛らしい女の子がニコニコと笑顔を振りまきながら、俺の前に冷たいおしぼりを出してきた。


「るなちです! よろしくお願いします! お兄さん、お酒は何にしますかー?」


猿渡の言った通り、本物のるなちだった。


チャラチャラしたパラリーガルと、婚活に破れてガールズバーで虚無になっているアソシエイト弁護士。そして、その推しのガールズバー嬢。


俺は差し出されたおしぼりで、疲れた顔をゴシゴシと拭うと、八木先生から貰った封筒の厚みをポケット越しに確認した。これなら、猿渡の道楽に付き合わされても最低限の被害で済むだろう。


俺はメニュー表を閉じ、るなちに向かって言った。


「……ハイボール。濃いめで頼む」


こうして、俺たちの騒がしすぎる夜は、じわじわと更けていくのだった。

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