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歓迎会の地雷原

夕凪がうちの事務所にやってきて、早くも1ヶ月ほどが経った。


「よし。今日、仕事が終わったら飲みに行くぞ。そういえば夕凪の歓迎会がまだだったからな」


夕方前、切りのいいところで俺がそう告げると、事務所の空気が一気に弛緩した。


「あ、了解です! 待ってました!」


真っ先に猿渡がガタッと椅子を鳴らして賛成する。


「お店、私がいくつかリサーチしておきますね」


瀬尾も眼鏡の位置を直しながら、どこか嬉しそうにパソコンの画面を切り替えた。こういう時の彼女は実に行動が早い。


その後、午後の短い休憩中のことだ。給湯室の前で、珍しく夕凪のほうから俺に話しかけてきた。


「あの、天野先生。今日のお店って、どこですか?」


「駅前の居酒屋だ。後でアドレス送る」


夕凪は「わかりました!」と少し安心したように笑った。


なるほど、やっぱり歓迎会を楽しみにしているのだろう。普段は俺たちとおどおどと最低限の会話しかしないが、彼女なりにみんなと打ち解けたいという前向きな気持ちの表れに違いない。俺は少しだけ、微笑ましいような気分になっていた。


――だが、その見立てが100%俺の勘違いだったと知ったのは、仕事終わりに店へ到着した瞬間だった。


「おや、天野くん。わしも来てよかったのかの〜?」


「……八木先生。なんでここにいるんですか」


居酒屋の個室、俺たちが予約した席のど真ん中に、白い髭を蓄えたお馴染みの隠居老人が、当然のような顔をして座っていた。


「私が呼びました! 先生がいてくれると、とっても楽しいですよ!」


横から夕凪が、満面の笑みで八木先生に寄り添う。仕事終わりに着替えてきたらしく、今日は普通の私服姿だった。


俺は頭が痛くなった。もちろん、八木先生なんて呼んでいない。今日、夕凪が珍しく俺に店の手がかりを訊ねてきたのは、単にこのジジイに場所を共有するためだったわけだ。つまり彼女は、俺たちだけの歓迎会ではつまらない、あるいは退屈だからと、勝手に元ボスを召喚したのである。主賓に裏でトカゲの尻尾を振られていた気分だ。


夕凪はそんな俺の心境など露知らず、八木先生と楽しそうに談笑し始めている。祖父と孫のようにも、親子のようにも見える。――いや、その距離の近さは、もう少し別の何かにも見えなくもなかった。


考えても仕方のないことだと、俺は視線をグラスに落とした。


まあ、来てしまったものは仕方がない。八木先生を交えた酒席はそれなりに盛り上がり、その流れのまま、二次会はすぐ近くのカラオケボックスへと行くことになった。


カラオケの室内。最初にマイクを握ったのは瀬尾だった。


彼女は画面のタッチパネルを真剣に操作すると、最近、巷の若者の間で流行っているという有名女性歌手のアップテンポな曲を歌い始めた。


「瀬尾さん、若いっすね〜! 」


タンバリンを叩きながら、猿渡が調子よく囃し立てる。


「ふふん、まあね。このくらいは嗜みよ」


瀬尾はマイクを片手に、少し得意げな表情でフッと鼻を鳴らした。日頃の鬱憤を晴らすかのような、実に堂々とした歌いっぷりだ。


曲が終わり、部屋に拍手が響く中、ソファーの奥から八木先生が声を上げた。


「蘭くん、せっかくじゃし、いつものあれを歌ってくれんか?」


「いいですよ!」


夕凪は嬉しそうにリモコンを受け取り、テキパキと曲を入れた。


やがてスピーカーから、妙に聴き馴染みのある、どこか泥臭くもパワフルなイントロが流れ始めた。


(……待て。これ、どこかで……)


俺の記憶の引き出しがガタガタと音を立てる。そうだ、これは俺が子供の頃、うちの母親が家事をしながらよく口ずさんでいた、90年代のあの超有名ヒット曲だ。


夕凪は22歳。世代じゃないなんてレベルではない。というか、この曲が流行っていた頃、彼女は生まれてすらいないはずだ。なのに、夕凪はマイクを両手で握りしめ、驚くほど堂々と、そして圧倒されるような熱量でその曲を歌い始めた。


マイクを握った夕凪の視線は、曲の間中ずっと、八木先生だけに向いていた。


泥沼の離婚案件や男女トラブルを散々見てきた俺には、この曲が何を歌っているのか、嫌というほど分かった。どれだけ努力しても選ばれない女の歌だ。結婚だの婚活だのと周囲に急かされながら、それでも諦めずに戦い続ける女の歌だ。


俺は嫌な予感がして、ハッとして瀬尾のほうを見た。


瀬尾は、完全に固まっていた。


手に持ったおしぼりをぎゅっと握りしめたまま、その身体が微かに、ぶるぶると震えている。そして、眼鏡の奥から、一筋の透明な涙が、ツッと彼女の頬を伝って流れ落ちるのが見えた。


(刺さっちまった……!)


あの切なすぎる旋律が、今の彼女の満身創痍の心に、一分の狂いもなくクリティカルヒットしてしまったのだ。あまりにも残酷すぎるタイミングのシンクロだった。夕凪に悪気がないのが、逆に一番タチが悪い。


俺がどう声をかけるべきか戸惑った、まさにその瞬間だった。


「ぶふっ……あはははは! ちょっと、瀬尾さん! ガチ泣きじゃん! ウケる、それ刺さりすぎでしょ!!」


隣で、猿渡が腹を抱えて死ぬほど爆笑し始めた。


こいつ……!


空気が読めないにも程がある。俺はすかさず猿渡の頭に拳骨を落とした。


夕凪は、歌い終わってようやく部屋の異常な空気に気づいたらしい。少し驚いたように目を丸くし、心配そうな顔で瀬尾を見つめている。


「あ、あの……瀬尾さん……?」


「ううっ……。そうよ、何が悪いのよ……! 私だって、一生懸命生きてるだけなのに……!」


ついに決壊した瀬尾は、眼鏡を外して涙を拭うと、隣に座っていた八木先生の胸に勢いよく泣きついた。


八木先生と瀬尾は、俺がこの事務所を立ち上げた頃からの顔見知りだ。何かと気にかけてくれるこの老人を、瀬尾もずいぶん慕っていた。


「よしよし、瀬尾くんは頑張っておるよ。わしはよーく知っとるからな」


八木先生は困ったように笑いながらも、白髭を揺らして瀬尾の背中を優しくポンポンと叩いて励ましている。流石は年の功、包容力の塊だ。


瀬尾が子供のように恩師の胸で涙を流す、その、ほんの少しだけ胸が温かくなりかけた瞬間だった。


「瀬尾さん。八木先生に、あんまりくっつかないでください」


部屋の隅から、ドスの効いた声が響いた。


見れば、夕凪がマイクを握りしめたまま、いつになく真剣な、どこか嫉妬に満ちた冷ややかな目で瀬尾を睨みつけていた。


(いや、そこ突っ込むところか!?)


涙の婚活弁護士、爆笑するパラリーガル、独占欲を隠さない新人、そしてそれらをすべて笑顔で受け止める白い髭の老人。


カオス極まるカラオケボックスの片隅で、俺は完全にぬるくなったウーロン茶を口に含み、今月何度目か分からない深い溜息をそっと吐き出した。

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