五月の給湯室にて
夕凪がうちの事務所にやってきて、2週間ほどが経った。
相変わらずパンダの耳にミニスカチャイナという、法律事務所のモラルを真っ向から揺るがす格好で出勤しているが、仕事自体はコピーやシュレッダー、書類の仕分けといった簡単な雑用をそれなりにこなしている。猫の手も借りたいほど人手が足りなかったのは事実だから、なんだかんだ言っても助かっているのが現状だった。
その日の午前中、パラリーガルの猿渡は役所へ職権請求に回るため、朝から外回りに出ていて不在だった。
残された俺と瀬尾は、それぞれのデスクで猛烈な書類仕事――いわゆる弁護士の主戦場であるデスクワークに没頭していた。訴状の文言を組み立て、判例をチェックする。キーボードを叩く音とページをめくる音だけが響く静寂の中、突如として固定電話のベルが鳴った。
受話器を取ったのは瀬尾だった。しばらく相手の話を聞いていた彼女は、ふっといつもの冷徹な声のトーンに戻って、部屋の隅にいた夕凪を呼び出した。
「夕凪さん、八木先生から電話です」
「あ、はいっ!」
夕凪は小さく跳ねるようにして受話器を受け取った。
次の瞬間、彼女の顔に、ぱっと大輪の笑顔が咲いた。俺たちの前では一度も見せたことのないような、心底嬉しそうな、甘えるような顔だ。楽しげにフンフンと相槌を打ちながら、電話口の恩師と話している。
(……俺たちには、あんな顔はしないな)
我知らず、そんな考えが頭をかすめた。まだ二週間しか経っていない。あいつにとって、ここはまだ「八木先生の次の預け先」でしかないのだろう。それはそれで、仕方のないことだった。
やがて通話を終えて受話器を置くと、夕凪がそわそわとした様子で俺のデスクに近寄ってきた。
「天野先生、あの……八木先生に頼まれ事をしました」
「わかった。こちらの仕事は後でいいから、そっちを優先して対応してくれ」
俺はパソコンの画面から目を離さずに応じた。あのジジイのことだ、退職手続きの書類の整理か、あるいは私物の片付けでも手伝わせるのだろう。元ボスの頼みなら、うちの雑用を止めてでも行かせるのが義理というものだ。
「はい! ありがとうございます!」
夕凪は返事をすると、玄関へ向かって上着を羽織った。
「それでは、出かけてきます」
「ああ、気をつけてな」
ドアが閉まり、再び事務所には俺と瀬尾の二人だけになった。無言のまま、黙々とデスクワークを再開する。静かだが、集中するには悪くない環境だった。
どれくらい時間が経っただろうか。
カチャリとドアが開き、「戻りました」と夕凪の静かな声が聞こえた。俺は視線だけを軽く動かして確認し、すぐに手元の書面作成に戻った。
夕凪はそのまま奥の給湯室に入り、何かをごそごそと始めているようだったが、自分の仕事に集中していたため、特に気にも留めていなかった。
――しかし、数十分後。
給湯室の奥から、何やら奇妙な、しかし猛烈に食欲をそそる匂いが漂ってきた。
じっくりと引いた出汁の深みと、上質な醤油が熱されて香ばしく立ち上るような、えも言われぬ芳醇な香り。
(……待て。なんだこの匂いは?)
法律事務所の執務室にあってはならない違和感に、俺は思わず顔を上げた。
ペンを置き、椅子のきしみ音を立てて立ち上がる。そのまま匂いの源泉である給湯室を覗き込むと、そこには驚くべき光景があった。
パンダチャイナ姿の夕凪が、家庭用の小鍋を火にかけ、真剣な顔でかぼちゃを煮ていた。
「おい……夕凪。お前、何をしてるんだ?」
俺の声に気づき、夕凪は振り返った。
「あ、天野先生。 はい、かぼちゃを煮ています。八木先生がさっきの電話で、どうしても私のかぼちゃの煮物が食べたいっておっしゃってたので」
俺は開いた口が塞がらなかった。
さっき「頼まれ事をして出かけてきます」と言って彼女が向かったのは、八木先生の事務所ではなく、近所のスーパーの野菜売り場だったわけだ。
業務時間中に、前の雇い主の個人的なワガママでかぼちゃを煮ている事務員。こいつは仕事を一体何だと思っているんだ。
いや、夕凪も夕凪だが、八木先生も八木先生だ。一度うちに預けたなら、もう夕凪はうちのスタッフだろうに。
何でも、八木先生の言い分としては『最近どうにも胃腸が弱ってな、市販の惣菜が全く受け付けんのじゃ。蘭くんのかぼちゃの煮物じゃないと喉を通らん気がする』ということらしい。どんな我儘な隠居老人だ、あのジジイは。
「天野先生、ちょうど良かったです。味見をお願いします」
夕凪は手際よく小鉢にかぼちゃの煮物をよそい、俺の前に差し出してきた。
味見だと? 馬鹿馬鹿しい。ここは法律事務所だ、仕事中に煮物の審査などしている暇は――そう言って断ろうとした。
したはずだった。
だが、目の前から立ち上る、実家を思い出すような優しくて懐かしい香りが、俺の舌の根を完全にマヒさせた。黄金色の出汁をたっぷり吸って、見るからにホクホクとしたかぼちゃの誘惑に、胃袋が白旗を上げた。
俺は無言で箸を受け取り、一切れを口に運んだ。
「…………うまい」
思わず、本音が口をついて漏れた。絶妙な甘辛さの中に、出汁の旨味がこれでもかと凝縮されている。料亭のそれというよりは、完璧に行き届いたおふくろの味だ。
「本当ですか……!」
夕凪は声を弾ませた。それからほっと小さく息をつき、また鍋に向き直る。その横顔は、いつものおどおどした様子とは少し違って、ただ静かに安堵しているように見えた。
「そうだ、瀬尾さんにも……」
夕凪は思い立ったように、もう一つの小鉢に煮物を手際よくよそい始めた。お盆の上に箸と一緒に並べ、そのまま給湯室を出て、瀬尾のデスクへと向かおうとする。
「おいっ、やめとけ!」
俺は慌てて引き留めようと声を張った。だが、一歩遅かった。
いつも機嫌の良くない瀬尾だ。そんな彼女の前に、仕事中、パンダ耳のチャイナドレスを着た新人が「かぼちゃの煮物です」と現れたらどうなるか。火を見るより明らかだった。
夕凪は無邪気に瀬尾のデスクの前に立ち、お盆を差し出した。
「瀬尾さん、かぼちゃの煮物です。よかったらどうぞ」
キーボードを叩く瀬尾の手が、ピクリと止まった。
ゆっくりと首が回り、眼鏡の奥の瞳が、氷点下の光を帯びて夕凪を射抜く。
「……かぼちゃの煮物……? あなた、仕事中に何を考えているの? 大体、そのおかしな服装もさることながら、ここは法律事務所であって厨房では――」
瀬尾の唇から、法廷での尋問さながらの長い説教が始まろうとしたその瞬間だった。
「八木先生からの、依頼なんだ」
俺は気付けば、自分のデスクから助け船を出していた。
(……クソ、なぜ俺がこいつをかばってるんだ?)
心の中で自分自身にツッコむ。八木先生の顔を立てるためか、あるいは夕凪のあの横顔が、一瞬で涙目に変わるのを見たくなかったからか。
「八木先生から……?」
瀬尾は俺の言葉に驚いたように目を瞬かせ、それから不承不承といった様子でお盆を受け取った。
「……そこまで仰るなら、いただくわ」
瀬尾は箸をつけ、上品に一切れを口へと運んだ。
咀嚼する数秒の間。瀬尾の眼鏡の奥の鋭さが、みるみるうちに霧散していくのが分かった。
「……美味しい」
ぽつりと漏らした瀬尾の声は、いつになく素直なものだった。
夕凪はその言葉を聞くと、ほっとしたように小さく頭を下げ、足早に給湯室へと戻っていった。鍋に残ったかぼちゃを丁寧に移し替え、八木先生に届けるためのタッパーの準備をしている。
しばらくして、再び上着を羽織った夕凪が給湯室から出てきた。
「それでは、八木先生の所へ行ってきます!」
俺は何か言いかけて、やめた。
代わりに、軽く顎を引く。それだけで十分だった。
ドアが閉まる。パンダの耳が揺れながら消えていく一瞬を、俺と瀬尾は並んで見送った。
静かになった事務所で、瀬尾は手元に残った空の小鉢をじっと見つめていた。
何を考えているのかは、分からない。ただ、その横顔が心なしかさっきまでより少しだけ柔らかくなっているように見えたのは、俺の気のせいではないと思う。
俺はそれ以上考えるのをやめ、パソコンへと視線を戻した。
瀬尾は何も言わず、キーボードに指を戻した。俺も倣うように、画面へと視線を落とした。




