表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

新人の執務服

火曜日の朝。夕凪蘭の初出勤日は、意外にも静かに始まった。


午前九時ちょうど。事務所の重いドアが遠慮がちに開く音がして、俺は書類から目を上げた。


「おっ……おはようございます……」


ピンクのハーフツインテールが、ドアの隙間から恐る恐る顔を覗かせている。昨日と同じ、サイズの合っていない私服姿だ。時間通りに来た。それだけでとりあえず及第点だと、俺は思った。


「ああ、お早う。早速こっちに来てくれ」


手招きすると、夕凪は小動物のようにおずおずとした足取りで近づいてきた。俺はペンを置き、すでにデスクについていた二人に声をかける。


「今日からうちで働いてもらう、夕凪蘭さんだ。八木先生の所でしばらくお世話になっていた。当面は雑用がメインだが、業務を覚えたら簡単な事務仕事も手伝ってもらう。……まあ、みんな仲良くやってくれ」


「あ、俺、猿渡! よろしくね〜!」


案の定、真っ先に声を上げたのは猿渡だった。人懐っこい笑みで手を振るその様子は、いつも通り軽い。


瀬尾はキーボードを叩く手を止め、眼鏡の奥の瞳を夕凪に向けた。昨日のイライラは幾分収まっているようだが、声のトーンは相変わらず硬い。


「瀬尾律子です。よろしくお願いします」


「夕凪蘭です……。よろしくお願いします」


夕凪は声を震わせながら、深々と頭を下げた。ハーフツインが大きく揺れる。初日にしては上出来だ、と俺は思った。


一通り挨拶が終わると、夕凪は何かを思い出したように俺を見上げた。


「あのっ……着替えてきます」


「ああ」


深く考えずに頷いてから、夕凪が更衣室へ消えた直後に気づいた。


(着替える……? うちの事務所に制服なんて置いてないんだがな)


まあ、作業用のエプロンでも持参したのだろう。そう結論づけて書類に目を戻し、5分、10分が経過した。


更衣室のドアが静かに開く音がした。


スリッパとは違う、軽い足音がオフィスの床に響いてくる。


「お待たせしました……」


何気なく顔を上げた俺は、次の瞬間、万年筆を取り落としそうになった。


「…………は?」


そこに立っていたのは、私服姿の地味な少女ではなかった。


頭には、モコモコとしたパンダの耳のカチューシャ。胴体を包んでいるのは、光沢のある鮮やかな赤いサテン生地のミニスカチャイナドレスだ。胸元は大胆に開き、短い裾のスリットからは、白いニーハイソックスに包まれた太ももが露骨に覗いている。


法律事務所の執務室に、である。


「そっ……その格好は、一体どうしたんだ」


思わず立ち上がった俺の隣で、猿渡が場違いな歓声を上げた。


「可愛い〜! コンカフェ嬢みたいじゃん! まあ、俺の推しのるなちには負けるけどさ!」


俺は猿渡を視界の外に追いやり、瀬尾に目を向けた。彼女は無言のまま氷点下の眼差しで夕凪を凝視している。その冷気だけで事務所の観葉植物が枯れそうなほどだった。


夕凪は二人の反応に怯えながら、身を縮めてむき出しの太ももを隠すように手を合わせた。


「あの、これは八木先生が……。天野先生の所では何を着たらいいですかって昨日聞いたら、『いつもの格好でいいよ』っておっしゃってました。契約書にもちゃんと書いといてあげるねって……」


「契約書……?」


嫌な予感が背筋を走った。


昨日八木が「これ、一応形式的なもんだから」と置いていった、八木法律事務所からの『出向条件承諾書』の束を引っ掴んでめくる。普通、雇用契約の類は雇う側が用意するものだ。だが、あの老練な恩師が先手を打って作ってきた書類だ。どこかに仕掛けがあると思っておくべきだった。


細かい文字で埋め尽くされた条項の最後、特約事項の欄に、確かにこう記されていた。


【特約:被雇用者(夕凪蘭)の執務中の服装については、業務の効率化および精神的平穏を担保するため、本人の自主性を最大限に尊重し、従前の執務服の着用を認めるものとする】


もっともらしい法的文言でカモフラージュされた、完璧な罠だった。


「あのジジイ……ッ」


こめかみを押さえた。あの何もできないハーフツインを押し付けられただけでなく、服装の自由まであらかじめ担保されていたわけだ。法律を武器にする男が、法律の書類で恩師に一本取られた。これ以上ない屈辱だった。


「……やっぱりダメですか……?」


顔を上げると、夕凪が涙目でチャイナドレスの裾を握りしめていた。


ここで揉めて初日から彼女の心を折るわけにもいかない。何より八木の契約書がある以上、今すぐ着替えろと命令する法的な根拠が薄かった。


「……いや。今日はもうそれで通せ」


「ほっ……本当ですか!」


夕凪がぱっと顔を明るくさせ、パンダの耳を揺らした。それから少し間を置いて、おずおずと上目遣いで続ける。


「あの……明日も、これで来ていいですか?」


(来る気か……)


目眩を覚えたが、これ以上この話題を引き延ばす気力もなかった。俺は小さく手を振り、問答を断ち切った。


「好きにしろ」


そして視線を動かし、一番信頼できる実務家に声をかけた。


「瀬尾」


「はい」


氷点下の眼差しのまま振り返る瀬尾に、俺は告げた。


「夕凪に、うちの事務所のルールと仕事を教えてやってくれ」


瀬尾の眉が、ピクリと跳ね上がった。


「……わかりました」


承諾の声は返ってきた。しかしその凍てつく横顔からは、猛烈な不満が滲み出ているのが、長年の付き合いでなくとも分かった。


一時間後、瀬尾がデスクの前に仁王立ちになるまでは。


「所長。少々、よろしいですか」


声のトーンは平静だった。だが、眼鏡の奥の光を見た瞬間、俺は悟った。


――これは、詰問だ。


「夕凪さんに基本的なファイリングを教えていたところ、彼女が大変申し訳なさそうに仰いました」


瀬尾は一拍置いた。


「『ファイルって何ですか』と」


俺は無言で瀬尾を見返した。


「パソコンのタイピングは、人差し指一本です」


「……」


「電話の取り方は、八木先生の事務所では肩もみ係だったため、担当外だったそうです」


沈黙が事務所に満ちた。猿渡は見て見ぬふりで資料に顔を埋め、当の夕凪は部屋の隅でパンダの耳をぺたんと伏せ、小さくなっている。


「所長の采配に口を挟むつもりはありません」


瀬尾は静かに、しかし明確に言い切った。


「ただ、私に教育係は荷が重いと申し上げています」


俺は深く、本日二度目のため息をついた。


(俺の采配ミスだったな……)


窓の外では、五月の空が呑気に青かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ