新人の執務服
火曜日の朝。夕凪蘭の初出勤日は、意外にも静かに始まった。
午前九時ちょうど。事務所の重いドアが遠慮がちに開く音がして、俺は書類から目を上げた。
「おっ……おはようございます……」
ピンクのハーフツインテールが、ドアの隙間から恐る恐る顔を覗かせている。昨日と同じ、サイズの合っていない私服姿だ。時間通りに来た。それだけでとりあえず及第点だと、俺は思った。
「ああ、お早う。早速こっちに来てくれ」
手招きすると、夕凪は小動物のようにおずおずとした足取りで近づいてきた。俺はペンを置き、すでにデスクについていた二人に声をかける。
「今日からうちで働いてもらう、夕凪蘭さんだ。八木先生の所でしばらくお世話になっていた。当面は雑用がメインだが、業務を覚えたら簡単な事務仕事も手伝ってもらう。……まあ、みんな仲良くやってくれ」
「あ、俺、猿渡! よろしくね〜!」
案の定、真っ先に声を上げたのは猿渡だった。人懐っこい笑みで手を振るその様子は、いつも通り軽い。
瀬尾はキーボードを叩く手を止め、眼鏡の奥の瞳を夕凪に向けた。昨日のイライラは幾分収まっているようだが、声のトーンは相変わらず硬い。
「瀬尾律子です。よろしくお願いします」
「夕凪蘭です……。よろしくお願いします」
夕凪は声を震わせながら、深々と頭を下げた。ハーフツインが大きく揺れる。初日にしては上出来だ、と俺は思った。
一通り挨拶が終わると、夕凪は何かを思い出したように俺を見上げた。
「あのっ……着替えてきます」
「ああ」
深く考えずに頷いてから、夕凪が更衣室へ消えた直後に気づいた。
(着替える……? うちの事務所に制服なんて置いてないんだがな)
まあ、作業用のエプロンでも持参したのだろう。そう結論づけて書類に目を戻し、5分、10分が経過した。
更衣室のドアが静かに開く音がした。
スリッパとは違う、軽い足音がオフィスの床に響いてくる。
「お待たせしました……」
何気なく顔を上げた俺は、次の瞬間、万年筆を取り落としそうになった。
「…………は?」
そこに立っていたのは、私服姿の地味な少女ではなかった。
頭には、モコモコとしたパンダの耳のカチューシャ。胴体を包んでいるのは、光沢のある鮮やかな赤いサテン生地のミニスカチャイナドレスだ。胸元は大胆に開き、短い裾のスリットからは、白いニーハイソックスに包まれた太ももが露骨に覗いている。
法律事務所の執務室に、である。
「そっ……その格好は、一体どうしたんだ」
思わず立ち上がった俺の隣で、猿渡が場違いな歓声を上げた。
「可愛い〜! コンカフェ嬢みたいじゃん! まあ、俺の推しのるなちには負けるけどさ!」
俺は猿渡を視界の外に追いやり、瀬尾に目を向けた。彼女は無言のまま氷点下の眼差しで夕凪を凝視している。その冷気だけで事務所の観葉植物が枯れそうなほどだった。
夕凪は二人の反応に怯えながら、身を縮めてむき出しの太ももを隠すように手を合わせた。
「あの、これは八木先生が……。天野先生の所では何を着たらいいですかって昨日聞いたら、『いつもの格好でいいよ』っておっしゃってました。契約書にもちゃんと書いといてあげるねって……」
「契約書……?」
嫌な予感が背筋を走った。
昨日八木が「これ、一応形式的なもんだから」と置いていった、八木法律事務所からの『出向条件承諾書』の束を引っ掴んでめくる。普通、雇用契約の類は雇う側が用意するものだ。だが、あの老練な恩師が先手を打って作ってきた書類だ。どこかに仕掛けがあると思っておくべきだった。
細かい文字で埋め尽くされた条項の最後、特約事項の欄に、確かにこう記されていた。
【特約:被雇用者(夕凪蘭)の執務中の服装については、業務の効率化および精神的平穏を担保するため、本人の自主性を最大限に尊重し、従前の執務服の着用を認めるものとする】
もっともらしい法的文言でカモフラージュされた、完璧な罠だった。
「あのジジイ……ッ」
こめかみを押さえた。あの何もできないハーフツインを押し付けられただけでなく、服装の自由まであらかじめ担保されていたわけだ。法律を武器にする男が、法律の書類で恩師に一本取られた。これ以上ない屈辱だった。
「……やっぱりダメですか……?」
顔を上げると、夕凪が涙目でチャイナドレスの裾を握りしめていた。
ここで揉めて初日から彼女の心を折るわけにもいかない。何より八木の契約書がある以上、今すぐ着替えろと命令する法的な根拠が薄かった。
「……いや。今日はもうそれで通せ」
「ほっ……本当ですか!」
夕凪がぱっと顔を明るくさせ、パンダの耳を揺らした。それから少し間を置いて、おずおずと上目遣いで続ける。
「あの……明日も、これで来ていいですか?」
(来る気か……)
目眩を覚えたが、これ以上この話題を引き延ばす気力もなかった。俺は小さく手を振り、問答を断ち切った。
「好きにしろ」
そして視線を動かし、一番信頼できる実務家に声をかけた。
「瀬尾」
「はい」
氷点下の眼差しのまま振り返る瀬尾に、俺は告げた。
「夕凪に、うちの事務所のルールと仕事を教えてやってくれ」
瀬尾の眉が、ピクリと跳ね上がった。
「……わかりました」
承諾の声は返ってきた。しかしその凍てつく横顔からは、猛烈な不満が滲み出ているのが、長年の付き合いでなくとも分かった。
一時間後、瀬尾がデスクの前に仁王立ちになるまでは。
「所長。少々、よろしいですか」
声のトーンは平静だった。だが、眼鏡の奥の光を見た瞬間、俺は悟った。
――これは、詰問だ。
「夕凪さんに基本的なファイリングを教えていたところ、彼女が大変申し訳なさそうに仰いました」
瀬尾は一拍置いた。
「『ファイルって何ですか』と」
俺は無言で瀬尾を見返した。
「パソコンのタイピングは、人差し指一本です」
「……」
「電話の取り方は、八木先生の事務所では肩もみ係だったため、担当外だったそうです」
沈黙が事務所に満ちた。猿渡は見て見ぬふりで資料に顔を埋め、当の夕凪は部屋の隅でパンダの耳をぺたんと伏せ、小さくなっている。
「所長の采配に口を挟むつもりはありません」
瀬尾は静かに、しかし明確に言い切った。
「ただ、私に教育係は荷が重いと申し上げています」
俺は深く、本日二度目のため息をついた。
(俺の采配ミスだったな……)
窓の外では、五月の空が呑気に青かった。




