天野法律事務所
週明けの月曜日、我が天野法律事務所の朝は、お世辞にも爽やかとは言えない空気で幕を開けた。
デスクの向こうで、アソシエイト弁護士の瀬尾律子が猛烈な勢いでキーボードを叩いている。30歳、長身に眼鏡、切れ長の目が印象的な彼女は、普段から真面目で冷徹と評されるが、今朝はその目がいつになく据わっていた。
昨日の婚活パーティーでまた黒星を刻んできたのだろう。周囲に放つイライラの波動が、物理的な圧となって部屋を満たしている。下手に声をかければこちらまで八つ裂きにされそうだ。
一方で、パラリーガルの猿渡拓海は、手元の資料に目を落としながらも、完全に魂がここにあらずだった。
弁護士を目指して勉強中のはずの25歳だが、昨夜もご執心のコンカフェ嬢・るなちのもとへ吸い込まれていったに違いない。だらしなく緩んだ口元から「るなち、まじ天使……」などとブツブツ呟いているのが聞こえる。完全に脳を溶かされているな。
そんな極端すぎる二人の部下を視界の端に流しながら、俺は黙々と書類に目を通した。
目元にかかる鬱陶しいくせ毛を指先で払いのける。35歳、既婚――いや、正確には、五年前に妻を亡くした男だ。この二人の空気に巻き込まれないことこそが、所長として月曜日を生き抜くための鉄則だった。
静寂と混沌の入り混じるオフィスに、突如として固定電話のベルが鳴り響いた。
受話器を取った俺は、耳に飛び込んできた懐かしい声に思わず背筋を伸ばした。
『やあ、天野啓くん。久しぶりじゃの〜』
俺のフルネームを気安く呼ぶその主は、八木兼人先生。俺が弁護士一年目の頃から独立するまで、公私ともに世話になった八木法律事務所のボス弁護士だ。亡き妻・静香のこともよく知っている、数少ない恩人の一人だった。ここ最近は互いに忙しく、すっかりご無沙汰してしまっていたのだが。
「八木先生、ご無沙汰しております。お元気でしたか」
『うむ、元気だけが取り柄じゃからな。――ところでな、天野くん。急なんじゃが、わしはもう年だし、そろそろ引退して事務所を閉めようと思っておるんじゃ』
おっとりとした口調で告げられた突然の引退宣言に、俺は言葉を失った。
『それでな、うちの事務所で預かっていた女の子が一人おってな。実に良い子なんじゃが、行き場がなくなって困っておる。天野くんのところで、面倒を見てはくれんか? とりあえず一度、会ってみてくれんかの。今日の午後、そっちにお邪魔するよ』
随分と急な話だった。しかし、現在の事務所は俺、瀬尾、拓海の三人ではとても手が回りきらないほどの忙しさの中にあった。猫の手も借りたい状況で、事務員がもう一人増えるのは願ってもない話ではある。
「……分かりました。お待ちしております」
受話器を置き、俺は小さく息を吐いた。あの八木先生がわざわざ頼み込んでくるのだ。断る理由など、最初からなかった。
――午後。
事務所のドアが開き、白い髪と立派な白髭を蓄えた、相変わらずおっとりとした佇まいの八木が姿を現した。
「久しぶりじゃの〜、天野くん! ほら、これ、皆で食べなさい」
八木は手土産の高級そうなお菓子を俺のデスクに手際よく置くと、人懐っこい笑みを浮かべた。
しかし俺の目は、ドアの内側で縮こまっている人影に、すでに釘付けになっていた。
ピンクがかった髪。ハーフツインテールのお団子ヘア。今風の出で立ちの、随分と若い娘だった。
(……高校生か?)
応接室に通され、いつも通り冷徹な顔をした瀬尾がお茶を運んでくる。八木はそのお茶を一口啜ると、背後の少女の背中をポンと叩いた。
「さっ、ご挨拶なさい」
少女はびくりと肩を揺らし、おどおどとした様子で一歩前に出た。
「こ、こんにちは……夕凪蘭です……」
細い声を絞り出した彼女を、俺は改めて観察した。
年齢は22歳だと聞いていたが、精神的な幼さのせいか、もっと若く見える。ピンクのハーフツインのお団子ヘアは、彼女の緊張に合わせて小刻みに揺れていた。
「天野です。ここの所長をしています」
内ポケットから名刺を取り出し、夕凪の前に差し出した。
夕凪蘭は両手で恐る恐る名刺を受け取ると、一度だけ俺の顔を見上げてから、そこに書かれた文字をじっと凝視した。くせのある黒髪が目元にかかる俺の顔を、まるで未知の生き物でも見るように。
そんな彼女の様子を見て、八木が我が子を自慢するかのように胸を張った。
「それで本題なんじゃが、蘭くん、どうかの〜? よく気が利く子だよ」
「……彼女は何ができますか? 八木先生の事務所では、具体的にどんな業務を?」
俺が実務的な問いを投げかけると、八木は白髭を弄りながら、事も無げに言った。
「蘭くんにはな、事務所の掃除、わしの昼飯作り、あとは肩もみが得意じゃよ!」
「…………」
俺は絶句した。
それは、裏を返せば「法律事務所の事務仕事は何もできない」と言っているのと同じではないか。ただでさえ即戦力が欲しいクソ忙しい時期に、掃除と飯炊きとマッサージしかできないハーフツインのお団子娘を雇えと言うのか。
(勘弁してくれ……)
内心の頭痛をこらえ、俺はなんとか話題を変えようと試みた。
「……八木先生、他のスタッフの皆さんはどうされたんですか?」
「ああ、彼らはわしの他の教え子たちのところへお願いしたよ。で、最後まで残ったのが蘭くんじゃ!」
脳裏に、かつての同僚たちの顔が浮かぶ。彼らは皆、優秀で要領が良い。つまり、誰もが夕凪蘭の引き受け手を拒み、最終的に一番断れない俺のところに回ってきたというわけだ。
(絵に描いたような厄介払いじゃないか……)
俺が渋い顔をしたのを察したのか、八木は急に体をくねくねと揺らし、子供のようにおねだりを始めた。
「ねえ〜ん! お願いじゃよ、天野くん〜! 天野くんは仕事熱心すぎるから、蘭くんみたいな子がいればちょうどいいと思うんじゃよ〜!」
始まった、と俺は天を仰ぎそうになった。
この老人は、俺が過去の恩義から、最終的に自分を無下に断れないことを百も承知でこの「お茶目な猛プッシュ」を繰り出しているのだ。知略の塊のような男だった。
「ほら、蘭くんもお願いなさい」
「よ、よろしくお願いします……っ」
八木に促され、夕凪も涙目になりながら深々と頭を下げる。ピンク色の髪の毛が机に触れそうだった。
俺は深く、本日一番の大きなため息をついた。
「……分かりましたよ、先生」
その言葉に、八木がパッと顔を輝かせる。俺はそれを手で制し、夕凪に向き直って静かに、しかし明確に条件を告げた。
「ただし、清掃以外の仕事も一から覚えてやってもらう。俺の昼飯作りとマッサージは論外だ」
「はいっ……!」と夕凪が小さく、しかし弾んだ声を上げる。
イライラを撒き散らす弁護士、魂の抜けたパラリーガル、そしてピンクの髪の何もできない元マッサージ係。俺の事務所は一体どこへ向かっているんだ。
そんな自問を胸の奥へ押し込みながら、俺はこっそりと胃のあたりを押さえた。




