馬車の中の沈黙
「いってらっしゃい」
──父が、そう言った。
さようなら、ではなかった。
出立の朝、薄い霧の残るエイベル公爵邸の門前で、ロザリンドは一度だけ瞬きをした。
行ってきます、と返したい衝動が、喉のあたりで小さく跳ねる。
けれど口にしたのは、令嬢の作法に則った、いつもより少しだけ深い辞儀だった。
「行って参ります」
寒い朝、わざわざ門までは出ない人だった。
それが、今朝は出ていた。外套も着ずに。
***
門の外には、ヴェルナント大公国の紋章を扉の下端に控えめに刻んだ、目立たない焦茶の馬車が一台。御者の制服にも、家紋の刺繍はない。
公爵令嬢が祖国を出るという報せを、街の好奇の目に晒さないための配慮だ。
(前世の田中律子なら、根回しの上手い取引先と評価したクチね)
ロザリンドは旅装の上に紺の外套を羽織り直して、馬車に向かった。
背中で、門が閉まる音は、聞こえなかった。父が、まだそこに立っているからだ。
それも、振り返らなかった。
外套も着ていない。
寒い朝に、わざわざ門までは出ない人だった。
それが、今朝は出ていた。
***
馬車の扉が、内側から開いた。
(御者が、中から?)
ロザリンドが眉を上げたのと、奥の座席に座った男の薄い青の瞳と視線が合ったのは、ほぼ同時だった。
黒髪、長身、漆黒の旅装。装飾は最低限。
ヴェルナント大公、ルーカス・ヴェルナント。雇用主本人が、迎えに来ていた。
「閣下」
「乗ってくれ」
短い。低い。
(……雇用主の手厚さも、契約条件の範囲内ということかしら)
そう本気で自分に説明をつけて、ロザリンドは向かいの座席に腰を下ろした。
馬車の中の男が、三日前から眠れていないことには、当然、気づかない。
ルーカスは何も言わずに、車内の小卓の上から、革表紙の冊子を一冊、彼女のほうへ差し出した。
「契約書の写しだ」
「拝受しました」
「条件は後でも見直せる。気になる箇所があれば、いつでも」
ロザリンドは冊子を開いた。昨夜、すでに枕の下で一晩過ごさせた写しと、一字一句同じだった。
ただ、一箇所だけ。身柄非引渡条項の余白に、新しい走り書きが加えられている。
「本条の解除には、解除の意思が雇用主または被雇用者本人にあることを要する」
要するに──祖国が「ロザリンドの意思」を偽装して引き渡しを要求してきても、本人の口から出た言葉でなければ効力を持たない、という念押しだった。
身柄は、大公国が抱え込む。それも、本人の意思以外では剥がせない構造で。
ロザリンドは冊子を閉じて、署名済みの写しを返した。
「ご丁寧にありがとうございます。問題ございません」
「そうか」
ルーカスは冊子を懐にしまい、もう一通、別の薄い書状を、卓の上に置いた。
「貴国との覚書も、別途、整える」
「……覚書、ですか」
「君の身柄返還要求を、事務的に放棄してもらう。対価は優遇枠と──照会権だ」
「照会権」
「貴国王宮から君への公式な照会は、こちらの外務府で一度受ける。届けた後、回答するか否か、何を返すか、すべて君の判断だ。命令ではない」
「……」
「もうひとつ。貴国がこの覚書に反して君の雇用契約に干渉し、こちら側に損害が生じた場合──補填はすべて貴国側より支出される構造とした」
ロザリンドの指が、書状の端に触れたところで、一拍だけ止まった。
(……あら、そこまで)
書状の余白に、算定額が一行。
羽根ペンを動かすまでもなく、ロザリンドの頭の中で、その額が祖国の予算と並べて置かれる。
(──祖国の財政では、絶対に払えない額)
(払おうとした瞬間、祖国そのものが潰れる、というぎりぎりの水位で揃えてある)
偶然、というには、よく出来ていた。
(私の雇用契約のほうは、個人契約として年俸六か月分。こちらは、国家の体力で殴り合う設計)
(雇用主側の、契約書の書き方のお趣味ね)
祖国側に先回りで署名させて、こちら側からの国際的な後始末まで終わらせる、ということだ。しかも、祖国が動いた瞬間に、祖国の財布が空になる仕掛けで。
(さすが、と申し上げてよろしいのかしら)
ロザリンドは書状の写しを、旅行鞄の内布の段に、丁寧に挟んだ。
「ご配慮、痛み入ります」
「君が気にするほどのことではない」
それだけのやりとりだった。
向かい合っている二人の間に、長い沈黙が落ちる。
馬車の車輪の音と、霧をはらんだ朝の空気が、ガラス越しに揺れる。
(……閣下、雑談がお苦手ね)
前世で新しい上司に当たったときの感覚を、少しだけ思い出した。
無理に喋らせる必要はない。沈黙が苦痛ではない上司は、たいてい有能だ。
***
馬車が国境に近づいたのは、昼前だった。
霧は晴れ、街道沿いの林が、晩秋の赤と金で染まっている。
ロザリンドは車窓の外を眺めながら、ひとつだけ、胸の内で短く頷いた。
──沈む船の甲板を、自分は今、降りている。
それだけのことだった。
国境の検問所が見えてくる。
馬車の振動が、橋を渡る軽い音に変わった。橋を越えれば、ヴェルナント大公国側だ。
その瞬間。
向かいの席で、ルーカスがふと、車窓のほうへ視線を向けた。
そして、誰に向けたわけでもない口調で、低く呟いた。
「3年前も、同じ季節だった」
ロザリンドは冊子から顔を上げた。
「閣下?」
ルーカスは、車窓の外を見たまま、こちらを見なかった。
「いや。独り言だ」
(独り言、ね)
三年前の同じ季節。大公国にとっては貿易の繁忙期だ。
新任顧問を迎える側として、当時の業務量と頭の中で照合しているのだろう。
──と、ロザリンドは即座に処理した。
「左様でございますか。今期も貿易黒字の推移、後ほど数字でいただければ」
我ながら、模範解答だった。
ルーカスは、車窓に映る自分の薄い顔のほうを、ほんの一拍だけ見た。
口角が、ほんの僅か、上がった。
それから、無表情に戻った。
「……ああ。揃えておく」
ロザリンドは、それ以上、気にしなかった。
***
国境の橋を渡り切った瞬間。
馬車の窓ガラスに、向こう側の街の朝の音と匂いが、わずかに流れ込んできた。
焼きたてのパンの匂い。湯気の立つ大鍋の、出汁の匂い。商人たちの呼び込みの声。子供が走る、軽い足音。
朝市が立っている。
ロザリンドは何気なく窓の外に視線を流して──その動きが、ほんの一瞬、止まった。
通り過ぎる屋台のひとつ。湯気の上がる蒸籠の中に、白い、丸い、小さな菓子が並んでいた。
団子、に似ていた。
前世の律子が、終電帰りに立ち寄った店で、たまに一袋だけ買って、給湯室で人目を盗んで食べていた──あの菓子の形に。
ロザリンドの口角が、本人も気づかないくらいの幅で、わずかに上がった。
向かいの座席で、ルーカスが、彼女のその表情を、見ていた。
何も言わなかった。
ただ、革表紙の手帳を懐から取り出して、何かを一行、書き留めた。
──後日、執務机の上に焼き菓子と紅茶が置かれ始める、その一行目だった。
ロザリンドは、もちろん、気づかない。
朝市の音が、馬車の後ろに流れていく。新しい国の、最初の朝の匂いだった。
ルーカスが手帳を閉じて、ロザリンドのほうを見ずに、低く言った。
「──ヴェルナント大公国へようこそ、経済顧問殿」
その呼び方を、ロザリンドが「自分の名前で呼ばれている」と気づくのは、執務机のプレートを見る、次の日の朝のことだった。
全部先回りで整えた雇用主を「契約条件の範囲内」と処理する鈍感ヒロインにきゅんと来たら【にこにこ】、「三年前も、同じ季節だった」の独り言に鳥肌が立ったら【びっくり】を! ★は、執務机に焼き菓子が並び始めるその一行目へのご祝儀に。




