表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/67

馬車の中の沈黙

「いってらっしゃい」


──父が、そう言った。


さようなら、ではなかった。


出立(しゅったつ)の朝、薄い霧の残るエイベル公爵邸の門前で、ロザリンドは一度だけ瞬きをした。


行ってきます、と返したい衝動が、喉のあたりで小さく跳ねる。


けれど口にしたのは、令嬢の作法に(のっと)った、いつもより少しだけ深い辞儀だった。


「行って参ります」


寒い朝、わざわざ門までは出ない人だった。


それが、今朝は出ていた。外套も着ずに。


***


門の外には、ヴェルナント大公国(たいこうこく)の紋章を扉の下端に控えめに刻んだ、目立たない焦茶の馬車が一台。御者(ぎょしゃ)の制服にも、家紋の刺繍はない。


公爵令嬢(こうしゃくれいじょう)が祖国を出るという報せを、街の好奇の目に(さら)さないための配慮だ。


(前世の田中律子(たなかりつこ)なら、根回しの上手い取引先と評価したクチね)


ロザリンドは旅装の上に紺の外套を羽織り直して、馬車に向かった。


背中で、門が閉まる音は、聞こえなかった。父が、まだそこに立っているからだ。


それも、振り返らなかった。


外套も着ていない。


寒い朝に、わざわざ門までは出ない人だった。


それが、今朝は出ていた。


***


馬車の扉が、内側から開いた。


(御者が、中から?)


ロザリンドが眉を上げたのと、奥の座席に座った男の薄い青の瞳と視線が合ったのは、ほぼ同時だった。


黒髪、長身、漆黒の旅装。装飾は最低限。


ヴェルナント大公、ルーカス・ヴェルナント。雇用主本人が、迎えに来ていた。


「閣下」


「乗ってくれ」


短い。低い。


(……雇用主の手厚さも、契約条件の範囲内ということかしら)


そう本気で自分に説明をつけて、ロザリンドは向かいの座席に腰を下ろした。


馬車の中の男が、三日前から眠れていないことには、当然、気づかない。


ルーカスは何も言わずに、車内の小卓の上から、革表紙の冊子を一冊、彼女のほうへ差し出した。


「契約書の写しだ」


拝受(はいじゅ)しました」


「条件は後でも見直せる。気になる箇所があれば、いつでも」


ロザリンドは冊子を開いた。昨夜、すでに枕の下で一晩過ごさせた写しと、一字一句同じだった。


ただ、一箇所だけ。身柄非引渡(みがらひひきわたし)条項の余白に、新しい走り書きが加えられている。


「本条の解除には、解除の意思が雇用主または被雇用者本人にあることを要する」


要するに──祖国が「ロザリンドの意思」を偽装(ぎそう)して引き渡しを要求してきても、本人の口から出た言葉でなければ効力を持たない、という念押しだった。


身柄は、大公国が抱え込む。それも、本人の意思以外では剥がせない構造で。


ロザリンドは冊子を閉じて、署名済みの写しを返した。


「ご丁寧にありがとうございます。問題ございません」


「そうか」


ルーカスは冊子を懐にしまい、もう一通、別の薄い書状を、卓の上に置いた。


「貴国との覚書も、別途、整える」


「……覚書、ですか」


「君の身柄返還要求を、事務的に放棄してもらう。対価は優遇枠(ゆうぐうわく)と──照会権(しょうかいけん)だ」


「照会権」


「貴国王宮から君への公式な照会は、こちらの外務府(がいむふ)で一度受ける。届けた後、回答するか否か、何を返すか、すべて君の判断だ。命令ではない」


「……」


「もうひとつ。貴国がこの覚書に反して君の雇用契約に干渉し、こちら側に損害が生じた場合──補填(ほてん)はすべて貴国側より支出される構造とした」


ロザリンドの指が、書状の端に触れたところで、一拍だけ止まった。


(……あら、そこまで)


書状の余白に、算定額が一行。


羽根ペンを動かすまでもなく、ロザリンドの頭の中で、その額が祖国の予算と並べて置かれる。


(──祖国の財政では、絶対に払えない額)


(払おうとした瞬間、祖国そのものが潰れる、というぎりぎりの水位で揃えてある)


偶然、というには、よく出来ていた。


(私の雇用契約のほうは、個人契約として年俸六か月分。こちらは、国家の体力で殴り合う設計)


(雇用主側の、契約書の書き方のお趣味ね)


祖国側に先回りで署名させて、こちら側からの国際的な後始末まで終わらせる、ということだ。しかも、祖国が動いた瞬間に、祖国の財布が空になる仕掛けで。


(さすが、と申し上げてよろしいのかしら)


ロザリンドは書状の写しを、旅行鞄の内布の段に、丁寧に挟んだ。


「ご配慮、痛み入ります」


「君が気にするほどのことではない」


それだけのやりとりだった。


向かい合っている二人の間に、長い沈黙が落ちる。


馬車の車輪の音と、霧をはらんだ朝の空気が、ガラス越しに揺れる。


(……閣下、雑談がお苦手ね)


前世で新しい上司に当たったときの感覚を、少しだけ思い出した。


無理に喋らせる必要はない。沈黙が苦痛ではない上司は、たいてい有能だ。


***


馬車が国境に近づいたのは、昼前だった。


霧は晴れ、街道沿いの林が、晩秋(ばんしゅう)の赤と金で染まっている。


ロザリンドは車窓の外を眺めながら、ひとつだけ、胸の内で短く頷いた。


──沈む船の甲板(かんぱん)を、自分は今、降りている。


それだけのことだった。


国境の検問所が見えてくる。


馬車の振動が、橋を渡る軽い音に変わった。橋を越えれば、ヴェルナント大公国側だ。


その瞬間。


向かいの席で、ルーカスがふと、車窓のほうへ視線を向けた。


そして、誰に向けたわけでもない口調で、低く(つぶや)いた。


3()()()()()()()()()()()()


ロザリンドは冊子から顔を上げた。


「閣下?」


ルーカスは、車窓の外を見たまま、こちらを見なかった。


「いや。独り言だ」


(独り言、ね)


三年前の同じ季節。大公国にとっては貿易の繁忙期だ。


新任顧問を迎える側として、当時の業務量と頭の中で照合しているのだろう。


──と、ロザリンドは即座に処理した。


「左様でございますか。今期も貿易黒字の推移(すいい)、後ほど数字でいただければ」


我ながら、模範解答だった。


ルーカスは、車窓に映る自分の薄い顔のほうを、ほんの一拍だけ見た。


口角が、ほんの(わず)か、上がった。


それから、無表情に戻った。


「……ああ。揃えておく」


ロザリンドは、それ以上、気にしなかった。


***


国境の橋を渡り切った瞬間。


馬車の窓ガラスに、向こう側の街の朝の音と匂いが、わずかに流れ込んできた。


焼きたてのパンの匂い。湯気の立つ大鍋の、出汁(だし)の匂い。商人たちの呼び込みの声。子供が走る、軽い足音。


朝市が立っている。


ロザリンドは何気なく窓の外に視線を流して──その動きが、ほんの一瞬、止まった。


通り過ぎる屋台のひとつ。湯気の上がる蒸籠(せいろ)の中に、白い、丸い、小さな菓子が並んでいた。


団子、に似ていた。


前世の律子が、終電帰りに立ち寄った店で、たまに一袋だけ買って、給湯室で人目を盗んで食べていた──あの菓子の形に。


ロザリンドの口角が、本人も気づかないくらいの幅で、わずかに上がった。


向かいの座席で、ルーカスが、彼女のその表情を、見ていた。


何も言わなかった。


ただ、革表紙の手帳を懐から取り出して、何かを一行、書き留めた。


──後日、執務机の上に焼き菓子と紅茶が置かれ始める、その一行目だった。


ロザリンドは、もちろん、気づかない。


朝市の音が、馬車の後ろに流れていく。新しい国の、最初の朝の匂いだった。


ルーカスが手帳を閉じて、ロザリンドのほうを見ずに、低く言った。


「──ヴェルナント大公国へようこそ、経済顧問殿(けいざいこもんどの)


その呼び方を、ロザリンドが「自分の名前で呼ばれている」と気づくのは、執務机のプレートを見る、次の日の朝のことだった。



全部先回りで整えた雇用主を「契約条件の範囲内」と処理する鈍感ヒロインにきゅんと来たら【にこにこ】、「三年前も、同じ季節だった」の独り言に鳥肌が立ったら【びっくり】を! ★は、執務机に焼き菓子が並び始めるその一行目へのご祝儀に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ