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明日、橋を一本

夕方。


エイベル公爵邸(こうしゃくてい)使用人(しようにん)たちが、見送りの段取(だんど)りで、玄関(げんかん)ホールに自然と集まり始めていた。


ロザリンドが階段(かいだん)を降りていくと、彼らは一斉(いっせい)に振り返って、礼をした。


「ロザリンドお嬢様(じょうさま)


「お気をつけて、お嬢様」


「ロザリンド様」


──「ロザリンド」


何人もの口から、彼女の名前が呼ばれた。


社交界(しゃこうかい)で「冷酷令嬢(れいこくれいじょう)」と陰口(かげぐち)を叩く貴族たちが見たら、たぶん、目を疑う光景だった。


けれどロザリンドにとっては、十八年見慣(みな)れた、当たり前の光景だった。


(──前世では、私が三晩徹夜(みばんてつや)で組んだ稟議書を、課長(かちょう)が自分の手柄(てがら)として役員会(やくいんかい)に出して、議事録から私の名前は消されていた)


(あの頃、私の名前を呼んでくれた人は、たぶん、深夜(しんや)のコンビニのレジ打ちのおばちゃんだけだった)


──だから、本当は、彼女はよく知っている。名前を呼ばれるということが、当たり前ではない、ということを。


(うちの使用人たちが私を(した)ってくれるのは、私の人徳(じんとく)ではなくて、労働対価(ろうどうたいか)をきちんと払って、業務範囲を明確(めいかく)にして、休みを取らせているからよ)


(雇用契約として、当然の運用(うんよう)をしているだけ)


──彼女は、本気でそう思っていた。


社交界の令嬢が気まぐれと感情で使用人を使(つか)い潰すこの国で、十八歳の公爵令嬢(こうしゃくれいじょう)がたった一人、労務管理を真面目にやっている異常事態(いじょうじたい)


それを彼女自身は「普通」と認識している。


ロザリンドは一人ずつに、上乗(うわの)せ分の封筒(ふうとう)を、()ずから渡していった。


洗濯係(せんたくがかり)老婆(ろうば)は、封筒を受け取って、両手で握りしめて、何も言わずに頭を下げた。


馬丁(ばてい)の青年は、「お嬢様、私、あちらの大公国まで馬車を()く、というのは、無理でしょうか」と本気で訊いた。ロザリンドは「あちらの馬と契約があるから無理ね」と真顔で答えた。


料理長(りょうりちょう)は、最後に、小さな(つつ)みを差し出した。


「お嬢様。道中(どうちゅう)の」


「あら、焼き菓子?」


「お嬢様の、いつもの」


「ありがとう。重宝(ちょうほう)するわ、これは」


ロザリンドは、それを胸元のポケットに、署名済(しょめいず)みの契約書の写しと、父から渡された三年分の準備の(となり)に、ことん、と入れた。


胸元が、少しだけ、重くなった。


***


夜。


自室に戻って、ロザリンドは最後に、机の上に三枚並んだ祖国の経済予測表(けいざいよそくひょう)を、ひとまとめにした。


これは、置いていく。


エイベル公爵に渡して、父の判断で使ってもらう。


彼女が祖国を出た後、家を守るための、最後の()土産(みやげ)だった。


(沈む船から、降りる)


(でも、船員(せんいん)()()えにしてから降りる、なんてことはしない)


ロザリンドは羊皮紙の束を封筒に入れて、封蝋を、丁寧に押した。


エイベル家の紋章ではなく、自分の個人印(こじんいん)のほうを選んだ。


──父娘(ふしゃ)私的(してき)な引き継ぎという扱いだ。


前世の感覚で言えば、転職(てんしょく)前夜に、後任(こうにん)に渡す個人(こじん)ノートみたいなもの。


机に置いた羽根ペンの先で、ふと、明日の予定を反芻(はんすう)する。


明朝六時、出立。父は門までは出ない人だから、たぶん書斎の窓から見送る。エマは同行(どうこう)する。馬車はヴェルナント大公国側の差し向けで、御者台(ぎょしゃだい)にはあの寡黙な剣士(けんし)


(……それで、雇用主本人は、執務室で書類を待っていらっしゃるはずよね)


(まあ、まさか、ご本人が迎えにいらっしゃるはずもないし)


ロザリンドは小さく頷いて、ランプの火を、ふっと吹き消した。


──翌朝、馬車の扉が内側から開いて、奥の座席(ざせき)にご本人が座っていることを、彼女は「送迎(そうげい)も契約条件の範囲内」と本気で解釈(かいしゃく)することになる。


それは、明日の話だった。


明日、(はし)を一本、(わた)るだけ。


それだけの夜だった。


何人もの口から名前を呼ばれる玄関ホール——呼ばれることが当たり前じゃないと知る方ほど刺さるはず。じんと来たら【泣ける】、料理長の焼き菓子を食べたいなら【にこにこ】を! ★は、明日発つ彼女への手向けに。

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