数字で降りる
出立前日の自室で、ロザリンドはひとつ、奇妙な作業をしていた。
──自分が辞めた後、勤め先が何年で潰れるかの試算である。
前世なら、誰もしない。退職届を出した社員が、元の会社の延命を本気で計算するなど、お人好しの度を越している。
けれど今のロザリンドには、それをやる権利があった。雇用主はもう、ヴェルナント大公国だ。祖国の経理に義理を立てる立場ではない。
「──持って、七年。下手をすれば、五年」
羽根ペンを置いて、机にずらりと並んだ羊皮紙を見下ろす。
出立の前日、午後三時。窓の外では、エイベル領の庭師が、見送りのための薔薇を一輪ずつ整えていた。
とても平和な午後だった。
──机の上だけは、平和ではなかった。
***
羊皮紙は、三枚ある。
一枚目。祖国アルバート王国の関税収入推移。
直近三年で、すでに十二パーセント落ちている。これから自分が大公国側の貿易ルートを再設計すれば、さらに二割は落ちる。
二枚目。聖女ミリアが経由する教会財団の資金流出。
同じ孤児院への寄付が月をまたいで二重に計上され、片方だけ帳簿から抜かれている。聖典の写本代が、写本師の数より多い。祭具の購入記録が、同じ品を年に四度も買い直している。
隠し方が雑だ。差額をどこにも紛れ込ませず、ただ抜いている。だから、ロザリンドが小一時間眺めただけで、抜かれた金額がそのまま浮かび上がる。年間およそ八パーセント。証拠は、向こうが勝手に残してくれている。
三枚目。王太子アルフレッドの予算超過率。直近の決算で十五パーセント。改善の意思なし。
ロザリンドは三枚を並べて、もう一度、合計した。
「ええ、まあ、そうなりますわね」
声に出してみる。誰もいない自室で。
(前世の感覚で言えば、これは──手形のジャンプが続いている中堅商社ってところかしら)
過労で倒れる前年、田中律子が経理として担当していた取引先のひとつが、ちょうどこんな数字だった。
決算期ごとに何故か数字が綺麗になる、典型的な粉飾。
その会社は、彼女が死んだ翌年に、本当に倒産した。
ロザリンドは三枚の羊皮紙を、丁寧に重ねた。
(私は、その会社の経理ではない。取引先でもない)
(今の私は──さっさと辞めて、転職先の入社書類を整えている元社員だわ)
***
机の端に、もう一枚、別格の書面が置いてあった。
雇用契約書の写し。昨夜、エイベル公爵邸の廊下で、ヴェルナント大公本人の前で詰めて署名したやつだ。
ロザリンドは、その違約金条項のところに指を置いた。
> 〈第七条 本契約の一方的解除があった場合、解除した側は、ロザリンド・エイベルの年俸の六か月分相当額を補償として支払うものとする〉
「年俸の、六か月分」
声に出して、もう一度、なぞる。
(……個人契約として、ごく常識的な額ね)
私の側が辞めても、雇用主の側が解雇しても、同じ六か月。双務。情で軽く呑める金額でもなければ、生活が立ち行かなくなる金額でもない。ちょうどよく、お互いの足を止めるための数字。
(雇用主の側もそれを承知で、こちらが安心して署名できるよう、対等の鎖を呑んでくれた。公平な契約書だわ)
そう、彼女は読んだ。
(──まあ、個人と国の契約で、これ以上を積もうとしたら、それはもう雇用契約ではないものね)
雇用契約は、雇用契約。祖国がらみの始末は、雇用主が国家間の枠組みで別途整える、と昨夜の廊下で口頭の確認も取った。個人の署名の重さに、祖国の予算を巻き込まないための分離。
(──ありがたいことだわ)
「ありがたいですわ、本当に」
ロザリンドは契約書の写しに、令嬢の作法で、軽く一礼した。
***
扉が、こん、と二度叩かれた。
「お嬢様、グレアムでございます」
「どうぞ」
老執事のグレアムは、銀盆に紅茶と、焼き菓子をひと皿載せて入ってきた。
ロザリンドは、無意識に手を伸ばした。
焼き菓子。指先に、温かい。
──緊張と疲労のサインだ、と本人は気づいていない。ただ口に運んで、もぐ、と噛んで、短く息を吐いた。
「お嬢様」
「なに」
「有給休暇って概念、この世界にもあればいいのに、と、先ほど独り言が漏れておいででしたが」
「あら聞こえてた?」
「ご令嬢の独り言は、執事の業務範囲ですので」
「令嬢らしさが、年に一度の決算くらい吹き飛んでおりましたが、というご指摘?」
「左様で」
「自覚はあるわ」
ロザリンドはくすりと笑った。それから、銀盆の脇に置かれていた、もう一束の書類のほうへ視線を移した。
「グレアム。退職金の上乗せ分、整理してくれた?」
「はい。お嬢様の私財から、こちらに」
差し出された束を、ロザリンドはぱらぱらとめくった。
エイベル公爵領で長年勤めている使用人たちの名前と、上乗せ額。
料理長、洗濯係の老婆、馬丁、庭師、若い見習いの娘たち。
──全員。漏れなし。
「祖国の通貨が暴落した場合の、向こう三年の生活防衛分として計算したわ。インフレ率は、最悪のシナリオで」
「お嬢様」
「なに?」
「私の分は、お嬢様、これは……」
「多い?」
「多すぎます」
「あら、足りないかしらと思ったのに」
ロザリンドは真顔だった。
グレアムは何か言いかけて、それから、銀盆を持つ手のほうに視線を落とした。
「……ありがたく、頂戴いたします」
「うん」
ロザリンドは、頷いた。
(社畜が、辞める日の朝、後輩の机にそっと菓子折りを置いていくときの気持ちって、こういうのかしら)
前世ではできなかった。
律子は引き継ぎ書類を整えるだけで力尽きて、後輩への餞別どころか、自分の机の整理すら半分残したまま倒れた。
今度は、できる。
それだけで、十分意味のあることだった。
辞める社員が祖国の寿命を弾き出す——その容赦ない試算と、使用人の生活防衛まで上乗せする去り際の品格に頷いたら、【びっくり】か【いいね】を! ★は、机に菓子折りを置いていく彼女への拍手に。




