明後日、発つわ
「お父様」
「なんだ」
「エイベル公爵家にとって、私が祖国を出ることは、損失ですか」
我ながら、無粋な訊き方だった。
でも、訊かなければと思った。
前世の律子なら、これを飲み込んで、勝手に倒れていた。今のロザリンドは、訊く。
公爵は、少しだけ間を置いた。
「短期的には、痛手だ」
「はい」
「お前が領地経営から手を引けば、来期の収益見込みは三割落ちる」
「……認識しております」
「だが」
公爵は、紅茶のカップを持ち上げて、ひとくち、ゆっくり飲んだ。
「長期的には、お前を王宮に残すと、エイベル家ごと潰れる」
ロザリンドの背筋を、何かがすっと通り過ぎた。
「アルバート王家の財政は、向こう十年で確実に詰む。お前が試算を出していたな」
「ええ」
「あの試算が正しければ、沈む船にお前を縛りつけたまま、エイベル家の信用も一緒に沈む。婚約解消の主導権が向こうから来た以上、それは天恵だ」
「……」
「お前の判断は、家にとっても、正しい」
公爵は、ようやくロザリンドの目を、まっすぐ見た。
「お前の判断を尊重する、ロザリンド」
***
ロザリンドは、少しだけ、扉のほうへ視線をそらした。
書斎の扉のすぐ外で、エマが息を殺して立っているのを、気配で感じていた。たぶん泣いている。
ロザリンドは、ほんの少しだけ、唇を引き結んだ。
それから、令嬢らしい礼を、いつもより少しだけ深く返した。
「お父様。ありがたく承ります」
昨夜から、何度目の「ありがたく」だろう。
王太子への「ありがたく」は皮肉。
大公への「ありがたく」は本心。
父への「ありがたく」は──たぶん、人生で一度きりの種類のものだった。
公爵は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、机の引き出しを開けて、小さな羊皮紙の束を取り出して、ロザリンドの前に置いた。
「ヴェルナント大公国側の、ここ五年の貿易収支と、主要貴族の名簿だ」
「……お父様、これ、いつから」
「三年前から、ぼちぼちと」
ロザリンドは、思わず父の顔を見た。
公爵は、ほんの少しだけ、口の端を動かした。
「お前がいつか、この国に愛想を尽かす日が来ると思っていた。その時に、行き先候補を持っていない父親では、お前に申し訳が立たんからな」
「……」
「ヴェルナント大公国は、その候補の筆頭だった」
ロザリンドは、羊皮紙の束を両手で受け取った。
紙の縁は、何度もめくられたあとがあって、すっかり柔らかくなっていた。
***
公爵は、もう一通、引き出しの奥から、封蝋のまだ新しい一葉を取り出して、羊皮紙の束の上に重ねた。
「それから、これは昨日、王立記録院で受理させてきた」
ロザリンドは封を検めて、ほんの少しだけ、目を見張った。
分籍証書。エイベル公爵家から、ロザリンド・エイベルを正式に分籍する旨の、受理印つきの書面だった。
「お前が公爵令嬢のままでは、万一のとき、祖国がお前を呼び戻す口実になる。奉仕義務だの、家の都合だの、理屈はいくらでも立つからな」
公爵の声は、淡々としていた。
「その口実を、一つも残さないでおいた。お前はもう、この家の令嬢ではない。──どこの国の、誰の付属物でもない、ただのロザリンドだ」
ロザリンドは、二通目の書面を、最初の羊皮紙の束の上に、そっと重ね直した。
「……ありがとうございます、お父様」
頭を下げる声が、ほんの少しだけ、揺れた。
***
書斎を出ると、廊下の少し先で、エマが鼻の頭を真っ赤にして立っていた。
「お、お嬢様……」
「エマ。荷造り、頼める?」
「はい、もう、夜のうちに、半分は」
「相変わらず仕事が早いわね」
ロザリンドはくすっと笑って、ふと付け加えた。
「あなたも、来てくれる?」
エマの目が、ぱっと見開かれた。
「行きます。行かせてください、お嬢様。私、ロザリンドお嬢様の侍女ですから、どこの国でも、お嬢様の侍女ですから」
ロザリンドは胸元のポケットの上を、軽く一度、指で押さえた。
そこには、署名済みの契約書の写しと──父から手渡された三年分の準備が、一緒に入っていた。
「明後日、発つわ」
紙の縁の柔らかさが、指の腹に伝わる。
エマが、はい、と頷いた。鼻の頭は、まだ、赤いままだった。
「三年前から、ぼちぼちと」と娘の門出を準備していた父の羊皮紙にうるっと来たら【泣ける】、エマの「行かせてください」に和んだら【にこにこ】を! ★は、新しい旅立ちへの餞別に。




