書斎の朝、父の沈黙
(──まさか、こんな朝に、退職届の話で父を泣かせるとは思わなかった)
公爵の指先が、契約書の端で止まっている。
三度、撫でて、止まる。
沈黙が長い。前世なら、これは「辞めるな」の沈黙だった。
「──ヴェルナント大公国経済顧問、ですか」
エイベル公爵の声は、思っていたより、ずっと低かった。
朝六時。書斎の窓から差し込む光は、まだ青みを帯びている。
ロザリンドは、その光の中で、父の机の正面に立っていた。
卓上に置かれているのは、昨夜の契約書の写し一枚。羊皮紙の端を、父の指がもう一度、ゆっくりと撫でる。
(あ、これは)
ロザリンドは、思わず内心で姿勢を正した。
前世で言えば──退職届を出した翌朝、部長に呼び出された時の、あの感じだ。
***
書斎の柱時計が、コチ、と一度鳴った。
セバスチャンが置いていった紅茶からは、まだ湯気が立っている。エマが昨夜、寝る前にこっそり淹れ方を変えたのだろう、いつもより甘い香りがした。
「お父様」
ロザリンドは、声を整えた。
「先に、ご報告すべき手順を踏まずに署名いたしました。お叱りは、いくらでもお受けします」
「ロザリンド」
「はい」
「お前は、いつから、私の許可で動く娘になった」
ロザリンドは、まばたきをした。
公爵は、契約書の写しを、ようやく手に取った。
年俸欄。違約金条項。職務範囲。決裁ライン。視線が、帳簿屋の動きで一行ずつ降りていく。
ふっと、息を吐いた。
「……決裁ライン、独立。違約金、向こう持ち。職務範囲、経済政策の立案権まで」
「はい」
「お前、これを、廊下で詰めたのか」
「廊下で詰めました」
「……」
公爵は、こめかみを軽く押さえた。それから、ロザリンドの顔を見た。
二十年近く、この娘の決裁を見てきた男の目だった。
「悪くないな」
「ありがとう存じます」
「むしろ、よくこの条件を呑ませた」
「向こうから、条件はこちらが決めていいと」
「……」
公爵は、もう一度こめかみを押さえた。
「あの大公が、か」
「ええ」
「あの、月十件の縁談を蹴ると噂の、」
「ええ」
「お前、その意味、わかっているか」
「もちろん。破格の条件で、優秀な人材確保を最優先なさったのですわ。ヴェルナント大公国は内政が弱点ですから、私の専門と完璧に補完──」
「うん」
公爵は、それ以上、言わなかった。
代わりに、契約書の写しを、ぱたん、と閉じた。
***
ロザリンドは、心の中で短く息を整えた。
ここからが、本題だった。
「お父様。婚約破棄については、こちらに非はございません。違約金はむしろ王太子側が当家にお支払いになる立場ですわ。書類は昨夜のうちに、王宮側の記録として残してまいりました」
「知っている」
「えっ」
ロザリンドは、思わず素の声を出してしまった。
「セバスチャンから、夜半に早馬を出させた。王宮の宮内記録官にいる、私の旧い友に確認を取らせた」
「……お早いですわね」
「お前の婚約だ。当然だ」
公爵は、淡々と言った。
「向こうの王太子の宣言文、聖女候補の証言、貴族たちの反応、すべて記録に残っている。お前を貶める方向の書き換えがされていないか、念のために、もう一度今朝確認させた」
ロザリンドは、ティーカップに伸ばしかけた手を止めた。
──ああ。
この国で、自分の名前を呼んでくれていた人は、たぶん父と老執事だけだった。昨夜、そう思った。
呼ぶだけじゃなかったらしい。
書類の改竄まで、夜半に走って確かめてくれていた。
夜半に早馬を走らせ書類の改竄まで確かめてくれた、不器用なお父様にじんと来たら、【泣ける】か【いいね】を! ★は、その背中への一票がわりに。




