三年、長かった〜氷の大公が、誰にも見せない角度で口角を上げる夜
王都の反対側。古い修道院を改築した宿、その最上階。
漆黒の正装を肘掛けに掛けた男は、椅子に深く座り直し、初めて、息を吐いた。
七年仕えてきた側近すら、知らない呼吸の仕方だった。
「閣下。エイベル邸の周辺、配置完了しました」
寡黙な剣の側近が、扉の前から短く報告する。
「ご苦労」
ルーカスは答えず、窓の外、エイベル公爵邸のある方角を見ていた。
「……それと、閣下。差し出がましいことを申し上げますが」
「言ってみろ」
側近は、声をひとつ落とした。
「契約書に『自分の名前で署名する欄を』と求められた件、いかがなさいますか。あれは──」
「ああ」
ルーカスは、窓ガラスに映る自分の顔から、視線をそらした。
そらした横顔の口角が、ほんの少しだけ上がっている。今夜、この男が誰にも見せなかった角度の表情だった。
「やはり、見ていなかったんだな、誰も」
「と、申しますと」
「あの女が、自分の名前を契約書に書きたいと、わざわざ口にしなければならない国にいた。──それだけのことだ」
側近は、答えなかった。
主の声が、いつもより半度ほど低かったからだ。
ルーカスは、もう一度、窓の外を見た。
「三年、長かった」
呟きは、夜の冷気に溶けて消えた。
ルーカスは椅子の背にもたれ、ようやく側近の方へ振り返った。
口角は、もう元の温度に戻っている。
「明朝、迎えの馬車を出す。──それと」
「は」
「あの女には、明日のうちに伝えるべきことが、ひとつだけある」
側近が片眉を上げた。
主の声に、今夜、初めて聞く種類の熱が混じっていた。
***
──翌朝。
エイベル公爵邸、二階奥。父の書斎の扉の前で、ロザリンドは一度だけ、深呼吸をした。
ノッカーに手を伸ばす前に、扉が、内側から開いた。
公爵は、もう外出着に着替えていた。
「入りなさい、ロザリンド」
夜会の話は、もう父の耳にも届いているらしい。
机の上には、封の切られた書状が一通。差出人の蝋印は、見覚えのある紋章だった。
その隣に、もう一通。
まだ封の切られていない、白い書状。
蝋印は──王家のものだった。
「ロザリンド」
父の声は、いつもより、半度ほど低かった。
「──お前、本当にいいんだな?」
ロザリンドは小さく頷いて、扉の内側へ足を踏み入れた。
退職届の宛先は、ここから先だ。
「三年前から見ていた」にきゅんとしたら【にこにこ】、「三年!?」と驚いたら【びっくり】を! ★がひとつ増えるたび、明日の更新が早足に。




