王宮の机の上で
違約金、祖国の財政では──絶対に支払えない額。
その一行を、宰相|エルヴィン・ガレットは三度読み返した。
──同じ日の、夕刻。アルバート王国、王宮中央棟、宰相執務室。燭台の火が、灯されたばかりの時刻だった。
***
宰相は、執務机に置かれた一通の公文書を、もう一度開き直した。
封蝋は、ヴェルナント大公国の紋章。
題は、簡潔に一行。
> 〈両国間覚書 草案〉
宰相は片眉を上げた。
「……仕事の早いことだな、大公殿下は」
ロザリンド・エイベルの大公国行きが決してから、まだ数日。先方からは早くも「国家間の後始末を事務的に整えたい」という書状が届いていた。
宰相は文書を、机の上に広げ直す。
***
覚書草案は、四つの条文から成っていた。
> 一、アルバート王国は、ロザリンド・エイベルのヴェルナント大公国経済顧問就任を公式に承認する。
> 二、アルバート王国は、本人の身柄返還を要求せず、ヴェルナント大公国の雇用契約に介入しない。
> 三、前記の合意に違背する干渉により、ロザリンド・エイベルの雇用契約に毀損が生じ、ヴェルナント大公国が損害を被った場合、その補填はすべて本覚書の署名国たるアルバート王国の負担とする。なお補填額は別紙算定書に依る。
> 四、本覚書の対価として、ヴェルナント大公国は左記の二点をアルバート王国に提供する。
> (一)ヴェルナント関税圏における、アルバート王国産品への優遇枠(三年間)
> (二)経済顧問ロザリンド・エイベルに対する、貴国王宮からの公式照会権。ただし照会はヴェルナント大公国外務府を経由するものとし、回答可否および回答内容の判断は本人に一任する。
宰相は、第三条のあたりで、一度、指を止めた。
(……違約金、こちら持ち)
別紙の算定書を、ぱさり、と引き寄せる。
宰相の指が、その額面の上で一度止まり、次に祖国の予算表のほうへ滑った。
二つの数字を並べた瞬間、宰相は、ふっと息を呑んだ。
(……我が国の財政では、絶対に払えない額)
(しかも、払おうとした瞬間、王国そのものが潰れるという──ぎりぎりの水位に揃えてある)
偶然ではあり得ない。一通り納めれば、王国の国庫が空になる、その一歩手前で止まる金額。これを正確に置くには、祖国の歳入・歳出・備蓄・国債残高のすべてを、向こうが先に把握していなければならない。
(先方は、覚書の起草時点ですでに、我が国の内情を全て把握した上で額面を組んでいる)
ロザリンド・エイベル本人が大公国に到着する前から──いや、エイベル公爵邸の廊下で雇用契約の署名を詰めた、あの夜よりも前から。ヴェルナント大公の机には、この覚書の草案と、祖国財政の解剖図が、すでに並んでいたということだ。
(あの大公殿下は、彼女を手に入れる前から、手放さない仕掛けを並べておられた)
宰相は、ふっと低く笑いを漏らした。
(……三年前、一度だけ、ヴェルナントの紋章入りの馬車を王宮の門前で見たことがある)
(あれは確か、公爵令嬢のお披露目があった日だった)
(今になってみれば、あの一度の来訪が、すでにこの覚書の下絵だったのではないか)
詮無い推測だった。
宰相は推測を打ち切り、次の頁をめくる。
(まあ、こちらから手を出さなければ、発動しない条項だ)
第四条のところで、もう一度、指が止まる。
(……照会権、ね)
ロザリンド・エイベル。冷酷令嬢、と社交界では揶揄されてきた女。
──しかし、王国経理の暗部を十六の歳から黙って整えてきたのは、誰だ。
(あの娘の頭は、公爵家の財産より、よほど高く売れる)
照会権という言葉の意味を、宰相はゆっくり噛み砕いた。
回答の質や量は本人に一任する──と書かれている。
(つまり、訊く権利はある。返ってくる保証はない、と)
宰相の口の端が、ほんのわずかに歪んだ。
(……まあ、訊けるだけでも、何もないよりは上等か)
***
扉が軽く叩かれた。
従者が、王太子殿下のお越しを告げる。
「お通ししろ」
入ってきたアルフレッドは、上気した顔のまま、書状の写しを手に握っていた。
「宰相、聞いたぞ。ヴェルナントから礼の使者が来たそうじゃないか」
「礼、と申されますか」
「あの冷酷女を引き取ってもらった対価の話だろう。当然、こちらに頭を下げに来たのだ」
宰相は表情を変えない。
(……頭を下げに来た、ね)
実際にはこちらが署名を求められている側なのだが、今ここで訂正するつもりはなかった。
王太子の虚栄は、国の安定のために、たまにはくすぐらせておくのが宰相の仕事だ。
「殿下。覚書の草案でございます。お目を通していただけますか」
「ふん」
アルフレッドは机の上の文書を、上から下へ流すように一度、眺めた。
内容の詳細までは追わない。
「対価、と書いてあるな」
「は」
「優遇枠? あとは……経済顧問への、何だ、照会権?」
「はい。端的に申しますれば、ロザリンド嬢の頭脳を、必要なときにお借りできる、という権利でございます」
王太子の眉が、ぴくり、と動いた。
「……俺の元にいる頃は、頼んでも一度も、国政の助言などしなかったぞ、あの女」
「左様でございましたか」
宰相の口調は、終始、平らだった。
(……それは、殿下が訊く形を整えなかったからでは)
──と、内心の一行は、外には出さない。
「まあ、いいだろう」
アルフレッドは鷹揚に頷いた。
「あの冷酷女が消えて、こちらは清々した上、関税の恩恵まで頂戴できる。──悪い話ではないな、宰相」
「仰せのとおりにございます」
宰相は、ペン皿の方へ手を伸ばしかけて──ふと、止めた。
「殿下。ご署名の前に、一点だけ」
「なんだ」
宰相は、覚書の第三条のあたりを、指の腹で軽く示した。
「この条項のみ、お心に留めおきを。──干渉なき限り、発動はいたしません」
「干渉?」
アルフレッドは鼻で笑った。
「あの冷酷女にか? するものか。俺はもう、あの女に関わらん」
「──左様でございますか」
宰相は、それ以上は言わず、静かに頷いた。
(干渉なき限り発動しない、と申し上げた)
(聞かれたのは、殿下ご自身)
「署名しておけ。俺の名で。陛下の花押は、明日、執りに行く」
「かしこまりました」
***
王太子が機嫌よく退出した後、宰相は一人、執務机に残った。
羽根ペンを取り、署名欄の上にペン先をかざす。
──そこで、わずかに手が止まった。
(……第三条と第四条が、噛み合いすぎている)
照会権という餌をこちらの目の前にぶら下げた上で、干渉すれば違約金、と書かれている。
(つまり──私が「照会」の形を越えて、あの娘に直接命令しようとした瞬間、祖国の財政では支払不能な額が、飛ぶ)
先方の意図は、明白だった。
ロザリンド・エイベルは、もう祖国の所有物ではない。照会には回答されるかもしれないが、命令はされない。
(……まあ、よかろう)
宰相はペン先を紙に下ろした。
(あの娘の頭脳を、公式に国が頼れる立場だけは、残しておけた)
(婚約破棄という形で縁を切った後にしては、上出来だ)
署名のペン先が、紙の上を滑る。
──エルヴィン・ガレット。
花押は、慣れた筆の運びだった。
本人は気づかなかった。
その筆の運びの中に、後年、王国の財政そのものを引き剥がす数字が潜むことを。
***
──同じ夕刻、ヴェルナント大公国、銀の塔の執務室。
ロザリンド・エイベルは、正式な雇用契約書に、自分の名を記し終えていた。
その契約書の上には、まだ祖国の宰相の花押が届いていない。
届くのは、数日後。
それまでに、ロザリンドは机の上に積まれた関税帳簿の、最初の欠陥をすでに見つけ終えている。
(……この優遇枠、ずいぶん甘く書かれているわね)
指が、頁の数字の上で、一度だけ止まる。そして、そのまま訂正の朱を引いた。
──仕事だから、引いた。
***
祖国が手に入れた優遇枠は、その時点で、静かに、削られ始めていた。
「あ、それ後で効くやつ……」と仕込みの匂いを嗅ぎ取ったら、【びっくり】を! ★は、これから始まる静かなドミノの、最初のひと押しに。




