↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王妃という名の社畜2.0、お断りします 〜婚約破棄をガッツポーズで歓迎したら、氷の大公に引き抜かれた件〜  作者: 冬野 結
逆プロポーズ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

69/75

婚姻契約書、調印

午後の執務室は、静かだった。


書記官も、側近も、いない。


机の上には、午前のうちにロザリンドが自ら起草した婚姻契約書(こんいんけいやくしょ)の草案(そうあん)が一枚。羽根ペンとインク壺(つぼ)、封蝋の小皿。窓から差し込む光は、雪に反射していつもよりやわらかい。


「閣下、お座りくださいませ」


「ああ」


ルーカスは、いつもの上座ではなく、ロザリンドの隣に腰を下ろした。


本来なら書記官のための席だ。だが今、この部屋に書記官はいない。彼は当然のように、彼女のとなりに座った。


ロザリンドは紙を彼の前に滑らせる。


「では、読み合わせをいたします」


「君が読み上げてくれ」


「承知いたしました」


彼女は紙を手に取り、姿勢を正した。


「第一条。能力譲渡条項。締約者(ていやくしゃ)ロザリンド・エイベルは、婚姻成立をもって、その経済・行政・契約交渉に関する一切の能力を、配偶者(はいぐうしゃ)ルーカス・ヴェルナント大公の管理運営する大公国の福祉(ふくし)のために行使することを誓約(せいやく)する」


「うん」


紙のふちを指で整え、次の条項へ視線を落とす。


「第二条。相互敬意条項。締約者は、互いの判断・人格・専門領域を、いかなる第三者の前においても侮辱(ぶじょく)されないよう、相互に防衛(ぼうえい)する義務を負う」


ルーカスのペン先が、わずかに止まる。


「──侮辱、か」


「念のためですわ」


「念のためで、ここまで書き込む人間はいないよ」


ロザリンドは表情を変えずに次に進んだ。羽根ペンの軸(じく)を彼に貸し与え、自分は新しい一本を取る。


「第三条。対等決裁条項。家庭内に発生する一切の意思決定は、二人の合議(ごうぎ)による。一方が単独で決定し、他方に通告(つうこく)する形式を禁ずる」


窓の外で、雪が一枚、静かに落ちた。


そこまで読み上げたところで、ルーカスが羽根ペンを置いた。


「ロージー」


「はい」


「ここに、もう一条、私から書き足してもいいか」


ロザリンドは目を上げた。彼が自分から条項を加えると言い出したのは、初めてだった。


「もちろんですわ。どうぞ」


ルーカスはペンを取り、第三条の下に、自分の字でゆっくりと書き付けた。


「第四条。子が生まれた場合、世継(よつ)ぎではなく、私(・)た(・)ち(・)の(・)子(・)として、二人の責任において育てる。命名(めいめい)、養育(よういく)方針、教育方針は、いずれも合議によって決定する。第三者がこれを単独で決定することを認めない」


書き終えてから、彼は紙を、彼女のほうへ静かに滑らせた。


「……これは」


「念のためだ」


ロザリンドは、自分の手から羽根ペンが落ちかけたのを、危ういところで持ち直した。


ルーカスはそれを見て、低く付け加えた。


「これは、君が何を恐れていたかの一覧への追加だ」


ロザリンドは少しだけ視線をそらした。


「……念のため、ですわね」


「ああ。念のためだ」


彼はそう言って、一文字も、修正を求められなかった。


「第五条。契約解除(かいじょ)条項。本契約は、双方の合意により解除できる。違約金規定を別紙に定める。ただし、相手方に履行(りこう)を強制する条項は設けない」


「履行を強制しない、か」


「縛りつけたくはありません。閣下のお気持ちが変わった日には、私もそれを尊重します」


ルーカスは、しばらく黙っていた。


そして低く言った。


「変わらないよ。君が来てから三年、変わっていない」


「……それは、契約書には書けない種類の条項ですわ」


「そうだな」


彼が、わずかに笑った気配がした。


「君らしい条項だ。──ところで、この契約は、私のほうにあまりに有利すぎないか」


「と、おっしゃいますと」


「君の能力を、私が独占することになる。これは大公国にとって過剰(かじょう)な利益だ。釣(つ)り合いを取るために、私からも何か譲渡しなくてはな」


ロザリンドは、少しだけ考えた。


「閣下のお時間と判断力、ですか? それは既に、十分に頂いておりますが」


ルーカスは、片手で目元を覆った。それでも肩は、わずかに揺れている。


「いや。もう少し、私的な何かだ」


「……私的、ですか」


「ああ。私的だ」


ロザリンドはピンとこなかったが、合理的な対価としてはあとで書面に追加すればよいと判断し、「では、後日改めて条項案を頂戴いたします」とだけ答えた。


ルーカスは、声を出さずに、もう一度笑った。


そして、紙の最終行に視線を落とす。


そこには、ロザリンドが自分の手で、最後に書き加えた一文があった。


ルーカスはそれを、声に出して読み上げた。


「第六条。本契約は、双方が互いの人生を尊重し、互(・)い(・)の(・)名(・)前(・)を(・)呼(・)び(・)続(・)け(・)る(・)こ(・)と(・)を、根本(こんぽん)義務とする」


彼は紙から目を上げ、ロザリンドを見た。


「……ロージー」


「はい、閣下」


「呼び続けるよ。約束する」


彼はそう言ってから、ふと、付け加えた。


「──その条項は、互(・)い(・)の、と書いてあったな」


「はい。そう書きました」


「では、君も。私を、名前で呼んでくれるんだろう」


ロザリンドは、羽根ペンの軸を、机の上できちんと揃えた。


「……まだ、署名前ですわ。閣下」


ルーカスは、一瞬、虚を突かれた顔をした。それから、低く、笑った。


「履行は強制しない。そう書いたのは、君だぞ」


「ええ。ですから──私の分は、私の好きな日に、果たしますわ」


ロザリンドは、まっすぐに彼の顔を見た。


そして、微笑んだ。


業務上の微笑みではない。労を労う礼でも、皮肉でもない。ただの、彼女自身の微笑みだった。


ルーカスの瞳が、一瞬、息を呑むように揺れた。


二人並んで、署名をした。


ロザリンド・エイベル

ルーカス・ヴェルナント


封蝋を落とす。書記官も、証人も、いない。二人だけの、私的な調印(ちょういん)だった。


窓の外を見ると、雪が止んでいた。


ロザリンドは契約書を慎重に折りたたみ、執務机の引き出しを開けた。いつも焼き菓子が置かれている、その隣。並べるように、紙を仕舞(しま)った。


引き出しを閉じる、その一動作だけが、いつもより、ほんの少し、丁寧だった。


ルーカスが立ち上がる気配がして、彼女も顔を上げる。


「閣下、本日はもうお戻りに?」


「ああ。──君も、今日は早く休みなさい」


「はい」


「最近、根を詰めすぎだ。署名ひとつで国の半分を背負ったんだぞ。今日くらいは、早く休め」


「顧問の労務環境については、いずれ労使協議といたしましょう」


「……それも、契約書に書くのか」


「ええ。次の改定で、第七条あたりに」


ルーカスは、声を出さずに笑った。


そして扉のところで一度足を止め、彼女のほうを振り返った。


何か言いかけて、結局、何も言わなかった。


ただ、彼の目元には、その日一日のうちで、一番やわらかい色があった。


「互いの名前を呼び続けることを、根本義務とする」——前世が一度も差し出されなかった言葉に来たら、【泣ける】を。★は、二人だけの封蝋に添える祝福として。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。