六年越し、だ
──そこで、空気が、変わった。
上座で、ルーカスが、わずかに息を吐いた。
それまで微動だにしなかった氷の青い瞳が、ほんの少しだけ、見開かれている。普段は完璧な角度で正面を見据えている肩が、わずかに揺れた。
側近たちは初めて気づく。
主君の口元が、ゆるんでいる。
「ふ」
短く、息が漏れた。
「ふ、っ……」
それから――長年仕えたディーター卿すら、一度も聞いたことのない音が、上座から響いた。
笑い声だった。
低く、短い。けれど、紛れもなく、声を出した笑いだった。
氷の大公と呼ばれ、大陸じゅうの王女に求婚されても眉一つ動かさなかった男が、今、自分の閣議室で、片手で口元を覆い、肩を揺らして笑っている。
書記官は失神しかけている。外交官は、初めて見るものを見るように主君を凝視した。
「それは……」
笑いを噛み殺すような声で、ルーカスは言った。
「いや、まったく、君らしい」
ロザリンドはじっと立ったまま、彼の返事を待っている。
ルーカスは口元から手を離し、まっすぐ彼女を見た。笑いの余韻が、その薄い青の瞳に、これまで誰も見たことのない色を残している。
「喜んで、受諾する」
ロザリンドは、満足そうに、こく、と頷いた。
「ありがとうございます。では、契約書を起草いたしますわ。条項の細部は、午後にでも詰めましょう」
そう言うと、彼女は静かに椅子に戻り、紅茶を一口含んだ。
書記官は、ようやく羽根ペンを拾った。手が震えていて、拾うのに三回失敗した。
ディーター卿が、震えを必死で押し殺した声で、口を開く。
「……閣下」
「ああ」
「これは、その。お祝い、と、申し上げて、よろしいので」
ルーカスは、目元に残った笑いの余韻を、長い指で軽く拭った。それでもまだ、口角は完全には戻っていない。
「祝ってくれ」
彼は短く言った。
「六年越し、だ」
──六年。
その一言が、閣議室の全員の頭の中に、すうっと染みていく。側近たちが、それぞれの場所で、ゆっくりと天を仰いだ。
ロザリンド嬢が顧問として参じた、その三年前。王太子主催のパーティに、主君が自ら足を運ばれ帰ってきた。あのとき、いつになく機嫌よく執務に戻られたのを、皆が覚えている。
あれは──つまり、そういうことだったのか。
財務官が、書類を、もう一度逆さに持った。
ロザリンドだけが、その視線の意味にもまるで気づかず、紅茶のカップを置きながら、書記官に向かって続けた。
「では、本日午後、契約書の清書に入ります。叩き台は、けさのうちに用意してございますわ。第一条は能力譲渡条項、第二条は相互敬意条項、第三条は対等決裁条項。ほかに契約解除条項などを加えた全五条、各条につき三案ずつ草案を添えてありますので、午後は細部を詰めて確定するだけですわ。書記官、清書用の上質紙を二束、午後までにご用意くださいまし」
「……は、はい、ただちに」
「それと、ご祝儀のご用意は不要ですわ。この婚姻は契約であって、祝いの対象ではございませんので」
書記官は、二度、頷いた。返事になっていなかった。
ロザリンドは、議題リストを片づけながら、ふと顔を上げて、上座の主君を見やる。
ルーカスは、まだ、彼女を見ていた。
その視線の温度が、いつもの閣議のそれと違うことには、――もちろん、彼女はまるで気づいていない。
午後の鐘が鳴るころ、この契約書には六本の条項が並ぶことになる。
──そのうちの一本を、彼女ではない誰かが書き加えることを、彼女はまだ知らない。
氷の大公の「祝ってくれ。六年越し、だ」にきゅんと来たら、【にこにこ】を! ★が増えるたび、続く条項が筆を速めます。




