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王妃という名の社畜2.0、お断りします 〜婚約破棄をガッツポーズで歓迎したら、氷の大公に引き抜かれた件〜  作者: 冬野 結
大公妃という名の幸福

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氷の大公の朝、ロージーの朝

「ロージー」


低い声が、耳のすぐ後ろで響いた。


「今日の関税改定(かんぜいかいてい)、俺の判(はん)が要るか」


ロザリンドは顔も上げず、ペンの先で第七項の数字を二度なぞる。


朝の光が、執務机の上を斜めに切り取っていた。その光を、背後から覗き込む影が、半分塞いでいる。「氷の大公(たいこう)」が、朝から、妻の手元を覗き込んでいる。


ちなみに、これが、最近の普段である。


「いえ、閣下のお手を煩(わずら)わせるのは午後の議題からで結構です。ですので、いま覗き込まれましても私の手が止まりますので、もう一歩だけお下がりいただけますか」


「……手厳しいな」


「業務時間ですので」


ルーカスが小さく息で笑ったのが、首筋の温度でわかった。


一歩、彼が下がる。ロザリンドは満足そうに頷き、書類に戻る。


──寒さ管理は労務管理の一環。距離管理は集中管理の一環ですわ。


我ながら、よくできた就業規則(しゅうぎょうきそく)だわ、と内心ひとり頷いて、彼女はまた数字の列を追い始める。


***


朝食の席で、侍女頭が銀の盆を運んできた。


「ロ(・)ザ(・)リ(・)ン(・)ド(・)様(・)、本日のお茶は薄めにいたしました。昨夜お休みが遅うございましたので」


「ありがとう。助かるわ」


ロザリンドは礼を述べる。


侍女頭は深々と一礼してから、ふと付け足した。


「ロザリンド様、本日は午後の視察にお供しても?」


──ロザリンド様。


「大公妃殿下(たいこうひでんか)」でも「世継(よつ)ぎを期待される御方」でもなく、ただの自分の名前。この国では、執事も侍女も商人も領民(りょうみん)も、まずそう呼ぶ。


椅子の向かいで黒パンを千切(ちぎ)っていたルーカスが、視線だけで侍女頭に頷いた。


「同行(どうこう)を許す。馬車は二台、街道(かいどう)の北回りで」


「かしこまりました」


侍女頭が下がる。


ロザリンドは紅茶のカップを両手で包んだ。


田中律子(たなかりつこ)だった頃、職場でフルネームを呼ばれたのは入社式(にゅうしゃしき)の名簿読み上げが最後だった気がする。あとはずっと、「経理(けいり)の」「あの子」「お前」。


紅茶は、確かに薄めだった。胃に優しい温度だった。


「ロージー」


向かいから、声。


「視察のあと、夕方は空けてある」


「閣下、それは業務でしょうか、それとも?」


「俺(・)と(・)の(・)時(・)間(・)だ(・)」


「では、業務でないほうの予定として、承りますわ」


ルーカスが目を細めた。それは公の場では絶対に見せない顔だった。


***


街の視察は、いつも通りだった。


いつも通り、というのが、たぶん一番の勝利だった。


商店通りに馬車を止めると、香辛料(こうしんりょう)を山と積んだ商人が深く一礼した。


「ロザリンド様! 先月の関税改定、あれで息子の徒弟料(とていりょう)が払えました」


「徒弟料が払えた──それが一番の評価ですわ」


商人は頭を下げてから、ふと声を落とした。


「祖国からの難民(なんみん)が、また増えております。受け入れ枠を、もう一段だけ……」


「来月の予算で枠を二倍にする。手続きはロザリンドの判で進めろ」


ルーカスが短く答え、商人が去っていく。


ロザリンドはふと隣を見上げた。彼は街ではなく、彼女の横顔を見ていた。満足そうな目だった。


「閣下、ご機嫌が見えております」


「気のせいだ」


「気のせい、ということにしておきますわ」


二人は馬車に戻った。


***


大公邸(たいこうてい)に戻る馬車の中、ルーカスが膝の上で一通の封書(ふうしょ)を開いた。赤い封蝋。祖国──アルバート王国の紋章。


ロザリンドは一瞥して、視線を窓の外に戻す。雪はもう降っていない。街路樹に薄く残っているだけ。


ルーカスは封書を黙って読み終え、それを上着の内側に仕舞った。


「ロージー」


「はい」


「祖国の聖女候補(せいじょこうほ)、修道院に入ったそうだ」


ロザリンドはしばらく、窓の外を見ていた。馬車が橋を渡る音。


「そう」


それだけだった。


ミリアという名前は口にしなかった。お気の毒に、とも言わなかった。哀(あわ)れみも、勝ち誇りもなかった。


ただの、「そう」。


ルーカスはそれを聞いて、ほんのわずか、口角を上げた。


──彼の妻は、もう、あちら側を生きていない。


それを確認できたことが、彼にとっては今朝の関税改定よりも、はるかに重要な政務(せいむ)だった。


ロザリンドは膝の上で指を組み直し、午後の議題リストを頭の中で並べ替える。第三項を先に、第五項を遅らせて、その間に侍女頭との打ち合わせを──


そこで、ふと、視界が斜めに揺れた。


「……ロザリンド?」


ルーカスの声が、急に遠くなった。


馬車の壁に肩がぶつかる。ロザリンドはとっさに、机に手をつくように、膝の上で指先を強く握った。


「失礼。少し、揺れましたわね」


「揺れていない」


ルーカスは即座に御者(ぎょしゃ)へ合図し、馬車を停めさせた。


「医師を呼べ。今すぐだ」


「閣下、過労ですわ。昨夜、書類を遅くまで」


「ロージー」


「……はい」


「今は、座っていろ」


ロザリンドは口を閉じる。


ルーカスの声が、いつもの一段、低かった。それは命令ではなく、懇願(こんがん)に近い響きだった。彼女の前でだけ、この男はそういう声を出せる。


──ふしぎだわ、と彼女は思った。


過労なら、いつも通り紅茶で済むのに。


なぜ今朝の薄い紅茶は、なんだか、いつもより甘く感じたのかしら。


馬車の外で、ルーカスが部下に向かって走らせる指示の声が響いていた。


廊下の足音ではなく、街路の上で──あの大公が、走らせている。


それ自体が、たぶん、今朝一番の異例だった。



当たり前に名前で呼ばれる朝が一番のご褒美だなと噛みしめたら、【にこにこ】か【いいね】を! ★を彼女の穏やかな朝に添えていただけたら。

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