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王妃という名の社畜2.0、お断りします 〜婚約破棄をガッツポーズで歓迎したら、氷の大公に引き抜かれた件〜  作者: 冬野 結
逆プロポーズ

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六年前の机の上で

「提案の前に──見せたいものがある」


閣議室(かくぎしつ)へ向かう廊下の途中、ルーカスはそう言って、ロザリンドの足を止めた。


ロザリンドは議題(ぎだい)リストを胸に抱いたまま、片眉を上げた。


「項目13は、議場でお出しする予定ですが」


「議場の前に、片付けておきたい一件だ。私の側の話だ」


──私の側の、話。


ロザリンドは、彼が「私的」という単語をどれほど警戒する男かを知っている。その主人が、自分から「私の側」と切り出したのは、これが初めてだった。


「……承知いたしました」


二人は廊下を引き返し、大公の私的な執務室に入った。


***


ルーカスは執務机(しつむづくえ)の最下段の引き出しに鍵を差し込み、ゆっくりと引いた。


引き出しの底から取り出されたのは、二つの束(たば)。


一つは、ヴェルナント大公国紋章入りの公文書(こうぶんしょ)。題は──〈両国間覚書 草案〉。


もう一つは、無題の帳面。だが、開いた瞬間、ロザリンドの呼吸がほんの一瞬、止まった。


アルバート王国の歳入(さいにゅう)、歳出(さいしゅつ)、備蓄(びちく)、国債残高、関税収入、教会への上納、王室費の内訳まで──六年前の日付を起点に、直近の月まで途切れることなく書き継がれている。


筆跡は一つではない。複数の手で、定期的に更新された痕跡があった。


「……これは」


ロザリンドはそれ以上、声にしなかった。


帳面の最終頁(ページ)、そこには赤い線で囲まれた一行があった。


> 想定違約金額 = 国庫残高 ー 最低運転資金 ー 一歩


ロザリンドは数字を黙読した。


第三章の覚書、別紙算定書(さんていしょ)に書かれていた違約金。あの夜、宰相エルヴィン・ガレットが机の上で青ざめた、あの額面と──寸分(すんぶん)、違わない。


──……六年前、ですって。


帳面の表紙の日付を、もう一度、確認する。


私が十五歳、社交界デビュー前。父の執務室で、初めて関税表の誤りを指摘した、あの年。


「──いつから、これを」


「君が初めて公の場に出た日の、翌週からだ」


ルーカスの声は、いつもと同じ温度だった。


「壁際で経済書を読んでいた令嬢に、二十秒だけ話しかけた。返ってきた一文で、私は仕事に戻れなくなった」


「……二十秒で、ここまで」


「二十秒で十分だった」


ルーカスは、覚書草案の方を、ロザリンドの前に静かに置いた。


「あの日のうちに、外務府に指示を出した。ヴェルナント大公国は、いずれアルバート王国から一人の公爵令嬢を引き受けることになる、と。──その日のために、祖国の財政を全(・)て把握(はあく)し、向こうから手出(てだ)しできない仕掛けを、先に並べておけ、と」


ロザリンドは草案の最初の一頁を捲(めく)った。


第三条。──干渉(かんしょう)により雇用契約に毀損(きそん)が生じた場合、補填はすべてアルバート王国の負担とする。


第四条。──対価として、貴国王宮からの公式照会権《こうしきしょうかいけん》を提供する。ただし回答可否は本人に一任する。


ロザリンドは、これを既(すで)に読んでいる。婚約破棄の翌日、エイベル邸の自室で、エイベル公爵から控えを受け取って読んだ。


そのときは、宰相が交渉で勝ち取った妥結の産物だと思っていた。


──違った。


これは六年前から、机の上で待っていた。私が婚約破棄される日を、待っていた。


──……手に入れる前から、手放さない仕掛けを並べていた、ですって。


第三章の幕間で、宰相が声に出さず呟いた一行を、ロザリンドは今(いま)、独立に、自分の頭の中で再構成した。


「閣下」


「うん」


「私が婚約破棄されない可能性は、当時、何パーセントと見積もっておられました?」


ルーカスは、ほんの少しだけ間を置いてから、答えた。


「四割」


「……その、四割の場合は」


「正面から、王太子に賠償と交換で譲渡を申し入れる予定だった。そのための譲渡契約書を、別に一通用意(・・)してある」


ロザリンドは、帳面と覚書草案の二つを、机の上で並べてみた。


六年分の人員、六年分の調査費、六年分の外務府の稼働。これを業務時間として算定すると──


──……投資回収(・・)の概念で測ると、相当な赤字(・・)ですわね、閣下。


「……私一人を確保するのに、随分なご投資ですこと」


声に出した。あえて、業務口調で。


ルーカスは、ふっと低く息を吐いた。


「足りない」


「は」


「これだけ注いでも、まだ君に釣り合わない。──足りるまで、何度でも注ぐ」


ロザリンドは、帳面の表紙に薄(うす)く積もった六年分の埃を、指の腹でそっと払った。


胸の中で、何かが温度を持ち始めている。怒りでもない。怯(おび)えでもない。


前世の田中律子が、誰にも見つけてもらえなかった二十八年間、ついに一度も味わえなかった種類の温度だった。


──婚約破棄までの三年。


三年、机の上に、私の人生を算定(・・)し続けた人がいた。


私が婚約破棄をガッツポーズ(・・・・・・)で迎える、その日のために。


ロザリンドは帳面と覚書草案を、丁寧に揃(そろ)えて、引き出しに戻した。最下段、鍵付きの、その奥。


「閣下」


「うん」


「廊下に戻りましょう。閣議に、遅れます」


「ああ」


ロザリンドは扉に向かって歩き出し──三歩進んだところで、一度だけ、振り返った。


「項目13、ですけれど」


「うん」


「六年分の業務時間に、釣り合うかは存じませんが。──私からも(・・・・)、対価を提示するつもりですので。覚悟(かくご)なさってくださいませ」


ルーカスの口元が、廊下の薄明かりの中で、わずかに、ほどけた。


「楽しみにしている」


***


二人が閣議室の扉を押し開けたとき、書記官は議題リストの末尾の一行を、まだ二度見しているところだった。


> 項目13・雇用契約の見直しについて


書記官は知らない。


その項目13を、六年前から、静かに待ち続けていた人がいたことを。


六年、机の上で人ひとりの人生を算定し続けた男の不器用すぎる愛し方に胸が温かくなったら、【泣ける】を。★は、六年分の埃を払った彼女の指先に添えて。

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