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王妃という名の社畜2.0、お断りします 〜婚約破棄をガッツポーズで歓迎したら、氷の大公に引き抜かれた件〜  作者: 冬野 結
逆プロポーズ

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合理ヒロイン、結論を出す

「えーと……これ、結局のところ、私から行くのが筋ですよねぇ、契約的に」


夜明け前の執務室で、ロザリンドはぽつりと呟(つぶや)いてから、誰もいないのを確認して、ハッと口を閉じた。


机の上には、白紙が一枚。タイトルはすでに書いてある。


> ヴェルナント大公(たいこう)・ルーカス殿との今後について


──前世の経理部で何百枚と起こした書式、そのまま。ただ、これから書く中身が、自分の心臓だった。


***


少し時を遡る。


暖炉の火はとうに落ち、窓の外は群青色(ぐんじょういろ)。雪をかぶった大公国(たいこうこく)の街並みが、薄明かりの底でしんと沈んでいる。誰もいない執務室は、いつもより少しだけ広く感じた。


机に視線を落とすと、昨夕(さくゆう)、自分の手の中で崩れた焼き菓子の屑(くず)が、白い紙の上にまだ薄く散っていた。侍女が片付けようとしたのを、ロザリンドが断ったのだ。


「自分で片付けますわ」


そう言ったきり、結局、屑は片付かないまま朝を迎えた。


──処理が、滞っている。


ロザリンドは小さく息をつき、椅子に腰を下ろした。


頭の中に、低い声が、まだ残っている。


> 生まれてきてから、ずっと、君だけを探してきた。

> 他の誰も、君を見ていなかった。それが、信じられなかった。


普段なら、感情の揺れは焼き菓子で抑え込む。足りなければ数字を書き出す。それでも足りなければ──そんな事態は、前世も今世も一度もなかった。


ロザリンドは新しい白紙を机の中央に置いた。羽根ペンを取り、インクをつける。


紙の上端に、自分の字で、こう書いた。


> ヴェルナント大公・ルーカス殿との今後について


書き終えてから、少しだけ笑いそうになった。前世の経理部で稟議書を起こしていたときと、まったく同じ書式である。


──前世の癖は、転生しても抜けないらしいわね。


そう独白して、襟元(えりもと)を正す。


***


まず、事実認定。


一、ルーカス殿は六年前、王太子主催のパーティ会場で、壁際の令嬢に話しかけた。当該(とうがい)令嬢は現在の私と同一人物である。


二、ルーカス殿は私の前でのみ仮面を外す。公式の場では氷の表情を保ち、二人になるとごくわずかに口角と肩がほどける。


三、ルーカス殿は私の能力を恐れず採用し、業務量を密(ひそ)かに調整し、焼き菓子を常備する。なお、過去三年、他の女性に視線を割いた事例は観測されていない。


ペン先を止めた。


事実の羅列(られつ)だけで、もう答えが出ている。だがロザリンドは、自分自身にこそ誰よりも厳しく検算(けんさん)する。


次の項。


***


自分の状態について


一、ルーカス殿の声を聞くと判断速度がわずかに低下する。第三四半期(しはんき)試算の際、平常時の約一・四倍の所要時間を要した。


二、彼が他国の使者に応対している間、紅茶の味が普段より苦く感じられた。茶葉(ちゃば)は同じであった。


三、昨夕、その言葉を聞いた際、手元の焼き菓子を無意識に握りつぶした。私の感情処理装置たる甘味摂取(せっしゅ)行動の、明白な機能不全である。


そして──現在、本紙の前で、ペンを持つ指がわずかに震えている。


ロザリンドはペンを置いた。自分の右手をじっと見る。たしかに、ほんの少し、震えていた。


長く、息を吐く。


──……これを、なんと分類するつもりなの、ロザリンド。


頭の中で、もう一人の自分が、呆れたように呟いた。


田中律子(たなかりつこ)。28歳。誰にも見つけてもらえないまま、ある朝倒れた女。


彼女だって、紙とペンは持っていた。残業時間も、体調の異変も、手帳の隅に几帳面に書き留めていた。ただ、その一冊を見つけてくれる人が、最後まで現れなかっただけ。


──でも、私は、見つけてもらえた。


見つけてもらえたのに、自分から動かないでどうするの。ここで行かなかったら、律子に顔向けできないわ。


ロザリンドは羽根ペンを取り直し、項目の末尾に、一行だけ書き足した。


> 以上の状態は、『好意』と分類するのが妥当(だとう)である。


書いたあと、しばらく、その一行を見ていた。


***


不思議な気分だった。


ガッツポーズで婚約破棄(こんやくはき)を歓迎したあの日から、私は自分の感情を「処理すべき案件」として扱ってきた。怒りも悲しみも皮肉に変換し、右から左へ流す。それが前世からの解放だと、本気で思っていた。


けれど、この一行を書き終えたとき、胸の中で何かが少しだけ温まった。


「処理」ではなく「保有」してもいい感情が、世の中にはあるらしい。


そういえば、机の隅に、いつもの焼き菓子と紅茶が置かれていた。誰が用意したのかは、聞かなくてもわかる。


普段は「無理をしないように」と書かれた小さな紙片が添えられている。今朝は、違った。


短く、こう書いてあった。


> 結論を急がなくていい


ロザリンドは、その一文を二度読んだ。


──急ぐなと言われると急ぎたくなるのが、私の性分(しょうぶん)ですわ、閣下。


声には出さず、心の中だけで返事をする。それでも口の端が、ほんの少しだけ上がった。彼に見られていなくてよかった、と思うくらいには緩んだ顔だった。


***


最後の項。


合理性チェック。


一、能力的補完率(ほかんりつ)、ほぼ百パーセント。財政と税制に歪みを抱えた大公国に、私の専門領域がそのまま噛み合う。


二、祖国アルバート王国と教会勢力の干渉(かんしょう)を、最終的に遮断(しゃだん)できる。


三、私個人の生存戦略として、評価される場・名前を呼ばれ続ける環境・対等な伴侶(はんりょ)・倒れる前に気づいてくれる人、その全てが既に揃っている。婚姻はそれを契約として明文化(めいぶんか)する手続きにすぎない。


四、前世の田中律子が手に入れられなかった要件(ようけん)の、ほぼ全てを満たす。


ペンを止める。


最後の一項を書きながら、ロザリンドはほんの少し、声を漏らした。


「えーと……これ、結局のところ、私から行くのが筋ですよねぇ、契約的に」


咳払いを一つ。姿勢を正す。


紙の最終行に、彼女は迷いなく書き付けた。


> 結論──契約条件の見直しを、私から(・・・)提案する。


書き終えてから、しばらく、紙を見ていた。


窓の外、群青色が薄れて、空の端が白み始めている。誰もいない執務室に、ロザリンドの息遣(いきづか)いだけが、静かに響いていた。


──律子。


心の中で、前世の自分に、短く話しかける。


──今日、私は、自分の人生の契約書を、自分から書きに行くわよ。


──少しだけ、付き合ってちょうだい。


ロザリンドは紙を丁寧に折りたたみ、本日の議題(ぎだい)リストの一番下に、新しい項目をしれっと書き加えた。


> 項目13・雇用契約の見直しについて


書記官が見たら、まず確実に、目を疑う一文だった。


感情を稟議書の書式で項目立てしていく鈍感ヒロインに頬がゆるんだら、【笑える】を! ★は、彼女の人生初の「保有してもいい感情」へのご祝儀に。

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