大陸に轟く「お断り」
「聖女? 興味ありませんわ」
──その一言が、三日のうちに、大陸を一周した。
***
隣国レイベルク、王女の私室。
侍女が読み上げる通信文の途中で、王女は扇をぱちんと畳んだ。
「もう一度、最後の部分を」
「『聖女? 興味ありませんわ。私は大公国の経済顧問ですので』──と」
王女は窓の外を見た。霜で白く縁取られた庭の薔薇。
「あの方こそ、私の理想ですわ」
侍女は微笑んで、もう何も言わなかった。
***
各国大使館の魔導通信室。その夜、送信石は夜通し震え続けた。
> 真聖女、ヴェルナント大公国に在り。
> 祖国アルバートが奉じていたは、偽聖女。
> 真聖女は本院の聖座を拒絶し、一介の経済顧問に留まると。
文字が、海を越え、山を越えていく。
その夜のうちに、商業ギルドの白髪の会頭は地図の投資先を一国へ書き換えた。「あの方が腰を据えた国に投資する。理由欄には、それで充分だと書いておけ」――低い笑い声が会議室を満たしたという。
通信士たちは、最後の一文を石板に刻むたび、思わず手を止めた。
「お断りします」
たった六文字が、こんなにも気持ちのいいものだとは、知らなかった。
***
祖国アルバート、王宮の一室。
アルフレッドは暖炉の前で、深く椅子に沈んでいた。葡萄酒の杯を握る指が、白い。
「……なぜだ」
呟きは、誰にも届かない。
「なぜなんだ」
火の粉が、ぱちりと爆ぜる。
──聖女は俺のものだったはずだ。あの女は俺の婚約者だったはずだ。国は俺の国だったはずだ。
なぜ、なぜ、なぜ。
最後まで、彼の口から「俺が悪かった」の六文字は、出てこなかった。プライドだけは、天井知らずのままだった。
そして翌朝、王宮の正門には、王弟即位を告げる旗が、静かに掲げられることになる。彼が座っていた玉座は、もう、彼のものではなかった。
***
その同じ夜、王宮の書庫では、古い聖女選定の記録が、埃の底から引き出されていた。
十数年前。まだ幼かったエイベル公女の、神殿石への反応――「反応なし」。署名は、当時の大神官のもの。
「……我らは」
宰相の指が、その一行で止まった。
「自らの手で真聖女を検め、『聖女にあらず』と断じ──そのうえで、隣国に、くれてやったのか」
誰も、答えられなかった。
捨てたのではない。検めた上で、捨てたのだ。
石が沈黙していた理由が、「あの頃の彼女の記憶には、まだ誰もいなかったから」だなどと、この場の誰ひとり、知る由もなかった。
***
北方の修道院。
灰色の壁に囲まれた小さな部屋で、ミリアはなお呟き続けていたという。
「お姉様が逃げたから、私が」
「騙された、こんなはずじゃ」
語尾は最後まで他責で、最後まで自分の行いを反省することはなかった。
聞いた修道女は、ただ、首を振った。
腕に抱くべき幼子は、すでに王太后に引き取られたあとだった。「ライオネル」の名は王家の系譜に残り、「ミリア」の名は、もう、誰の口にも上らない。
それきり、彼女の名は、大陸の話題から消えた。
***
そして、大公国。
夕刻の執務室。
ロザリンドは関税表の最終確認を終え、ペンを置いた。窓の外、雪が降り始めている。
「ロザリンド」
扉が、静かに開いた。
「閣下」
ルーカスが、いつものように肩掛けを差し出してくる。
「儀式は疲れただろう。午後の予定は移した」
「ありがとうございます。でも、午後はちゃんと書類を捌きましたわ」
「知っている」
ロザリンドは肩掛けを受け取り、苦笑した。労務管理の一環ね、とまた心の中で訳してしまう。
ルーカスは執務机の前で、ふと口を開いた。
「少し、君に聞きたいことがある」
「聖女のことですか? 興味ありませんわ。何度でも申し上げます」
ルーカスの口角が、わずかに上がった。
「……そうじゃない」
「?」
続きを言いかけて、彼の唇が動きかけ──けれど、ルーカスは口を閉じた。
「いや。今日は早く休んでくれ」
「承知しましたわ」
ロザリンドは頷き、ペンを片付け始めた。
侍従の運んできた紅茶から、湯気が立ちのぼる。机の端には、いつの間にか焼き菓子が一つ。
書き添えの紙片には、短く一行。
> 君が選ばなかった未来を、俺は誇りに思う
ロザリンドは、それを読んで、しばらく動けなかった。
──……前世の私が、職場で倒れた夜、誰かにこの一行をもらえていたら。
羽根ペンを置いた指先が、ほんの少し、震えた。
紙片を畳み、胸元にしまう。
見返してやろうなんて、思ったこともなかった。それなのに、気づけば、全て終わっていた。
祖国は崩れ、教会は屈し、ミリアは消えた。アルフレッドの名はもう、大陸の通信文に乗らない。
***
残っているのは、たぶん、ひとつだけ。
ロザリンドは、手元の白紙を見つめた。まだ、何も書かれていない。
残っているのは──自分の心の、いちばん奥。まだ、自分にすら、名前のつけられない何かだった。
雪が、しんしんと、窓の外で降り続けている。
それが何なのか、彼女はまだ、業務外の何かとして棚に上げようとした。いつものように。合理的に。
けれど今日は、うまくいかなかった。
紅茶は、まだ温かい。焼き菓子は、いつもの味のはずだった。
それなのに今日は、ペンを片付ける指が、いつもより、ほんの少しだけ、遅かった。
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