聖女? 興味ありませんわ
「聖女? 興味ありませんわ」
──のちに大陸を一周することになるその一言は、雪の朝、ヴェルナント大公国の謁見の間で、極めて事務的に発せられた。
時刻を、三十秒ほど巻き戻す。
***
枢機卿が、跪いた。
深紅の祭服が、絨毯の上にゆっくりと沈み込む。
教会本院の最高位が、銀髪の経済顧問に頭を垂れていた。
「真聖女様」
その一語で、空気が止まった。
各国大使が息を呑む。文書官が筆を取り落とす。祖国アルバート王国の大使は、蒼白を通り越して紙のような色になっていた。
ロザリンドだけが、いつもの顔だった。
枢機卿が顔を上げる。年老いた瞳に、ありったけの祈りを込めて。
「真聖女様。どうか本院の聖座にお就きになり、真聖女として教会をお導きください」
ロザリンドは、首をわずかに傾けた。
「聖座、と仰いますと」
「本院の頂、歴代の真聖女のみがお就きになった座にございます。かつて偽の聖女を奉じ、教会の威信を貶めた失態は、真の聖女がその座にお就きになることでしか雪げませぬ。──揺らいだ大陸の宗教秩序を、どうかお導きください。これは大陸全土の安寧、神の意志でございます」
「神の意志」
ロザリンドが、その四文字を口の中で転がした。
ルーカスの視線が、わずかに動く。
彼女の答えを邪魔する気はないらしく、半歩、後ろに引いた。
ロザリンドは微笑んだ。
社交界が「冷徹な悪役令嬢」と評した、あの微笑みで。
「聖女? 興味ありませんわ。私は大公国の経済顧問ですので」
静かに。しかし、はっきりと。
謁見の間に、衣擦れの音が広がる。各国大使が顔を見合わせ、祖国大使は立っていられず柱に手をついた。
枢機卿の唇が、震えた。
「……お、お戯れを」
「あら、誤解させてしまったかしら」
ロザリンドは、手元の予定表に視線を落とす。
「整理いたしますわ」
「整理」
「ええ、業務上の整理です。三点」
ペンを取り、白紙の余白に、一、二、三、と番号を振る。書類を裁くときと同じ手つきだった。
「第一に──」
すっと、顔を上げる。
「雇用契約上、私はヴェルナント大公国の経済顧問でございます。教会は聖女を“認定”なさる権をお持ちでも、すでに大公国へ約定済みの労働を“召し上げる”権までは、お持ちではございませんでしょう。──あいにく、私の手は、もう塞がっておりますの」
枢機卿が、束の間、言葉を探した。
聖女を認定する権はあれど、すでに他国へ約した労働を神の名で取り上げる条文は、教会の戒律にもない。隅で、祖国大使が深くうつむいた。
「第二に」
ロザリンドの声は、淡々としていた。
「聖女という称号は、私の名前ではございません。私の名は、ロザリンド・エイベル。それで充分ですわ。──称号を増やしていただく必要は、ございませんの」
──律子。あなたの頃も、そうだったわね。「経理部の人」「総務の子」「あの新人」。あれは全部、私の名前じゃなかった。
胸の奥で、誰かが頷いた気がした。
「第三に」
ロザリンドは、ペンの先を真っ直ぐ枢機卿に向けた。
「教会の威信も、大陸の宗教秩序の立て直しも、私の労働範囲外でございます。労働には対価が伴います。範囲外の業務は、お受けいたしかねますの。──以上、三点でございます」
謁見の間が、静まり返った。
枢機卿が、両手を組んだ。最後の手札を切る顔だった。
「しかし、真聖女様。これは──神の意志として……」
ロザリンドは、ペンを置いた。
そして、極めて、優雅に。
「神の意志は、契約書には書かれておりませんわ」
「……」
「わたくしが契約書にサインしたあの日、その相手は、ヴェルナント大公国でございました。──雇用主が神であらせられるなら、従いましたでしょうけれど。あいにく、神と契約を結んだ覚えは、ございませんの」
ふっと、微笑む。枢機卿の口が、ゆっくりと閉じた。
ロザリンドの後ろで、ルーカスが半歩、前に出る。
「話は終わりだ」
短く、低く。
「真聖女様の就任については、彼女自身が答えた。これ以上はない。──案内を」
侍従が即座に動く。枢機卿団が立ち上がり、礼を取り、退出していく。
祖国大使は、誰にも支えられぬまま、よろよろと最後に出ていった。
扉が閉まる。
謁見の間に残ったのは、ロザリンドとルーカス、それから記録係の文書官だけだった。
ロザリンドは、予定表の三つの番号を、ペンの背でとんとん、と叩いた。
「閣下。午後の関税表のお時間、押しておりませんか」
「……押している」
「では、すぐ執務室に戻りますわ」
ルーカスは、しばらく彼女を見ていた。
何か言いかけて、口を閉じる。
代わりに、自分のマントを持ち上げ、ロザリンドの肩に無造作にかけた。
「謁見の間は冷える」
「あら。部下の体調管理まで、ありがとうございます。──寒さ管理は労務管理の一環、でしたものね」
「ああ。君が倒れでもしたら困る」
ルーカスの口角が、ほんの少しだけ、上がった気がした。
ロザリンドは気づかない。マントの重さを、ただ「上着の追加支給」として受け取り、執務室への扉に向かう。
歩きながら、ふと、内心で呟いた。
──今の私の名前は、何もないままじゃない。
──ロザリンド・エイベルよ。
廊下の窓の外で、雪が、降り始めていた。
その夜、教会本院の魔導通信塔から発せられた一報が、大陸中の貴族・商人・聖職者に同時刻で届くことになる──「真聖女、ヴェルナント大公国経済顧問の任を辞さず」と。
翻訳すれば、こうだ。
──「真聖女? もちろん、お断りします」
「聖女? 興味ありませんわ」の潔さにスッとしたら【笑える】、「あれは全部、私の名前じゃなかった」にじんと来たら【泣ける】を! ★は名前を選んだ彼女への拍手がわりに。




