銀の髪、青の瞳
「徴の照合儀式、これより執り行います」
進行役の枢機卿が、低く宣言した。
謁見の間の空気が、いつもより一段、冷えている。
ロザリンドは、その正面に立っていた。
教会本院から派遣された高位聖職者団――枢機卿三名と神官十二名。普段は大公国の城に足を踏み入れることすらない人々が、磨き抜かれた床の上に整然と並んでいる。
普段の実務ドレスではなく、儀礼用の銀糸の上衣。装飾は最小限。腰まで届く銀髪は、教会の手順書の指定どおり、結わずに下ろされている。
──この時間で、関税表が三枚は処理できたわね。
心の中で短く息を吐いた。
***
儀式は、淡々と進んだ。
「一の徴――銀の月光に近い髪」
枢機卿の合図で、神官の一人が銀のランプを掲げる。月光に近い波長だけを抽出する仕掛けらしい。
鏡越しの光が、ロザリンドの髪を通った。
会場が息を呑む。光が、絹のような銀の輝きとなって反射した。
「……一致」
「二の徴――深海の青の瞳」
別の神官が、藍色のガラス玉を目の高さに掲げる。覗き込む。
「……一致」
「三の徴――波長の照応」
最後の検査は、神殿石と呼ばれる丸い結晶を、ロザリンドの掌に乗せるだけだった。
石は、長く沈黙した。
「……不発か」誰かが、ほっとしたように呟きかけた。
──次の瞬間、石が、内側から青白く焼けるように発光した。
光が、掌から腕の芯へ逆流する。
瞬間、ロザリンドの視界の端が、すっと暗くなった。指先から、力が抜けていく。徹夜明けの、あの重さによく似ていた。
──なに、これ……。
***
光のなかで、声がした。
自分の声に、よく似た、けれど自分ではない声。とても遠い──終電と、コンビニの袋の、あの夜の側から。
光の向こうに、ひとりの女がいた。疲れ切った肩。フルネームで呼ばれることすら忘れた目をして、それでも、こちらをまっすぐに見ている。
知っている、とロザリンドは思った。誰よりもよく、知っている女だ。
『……あなた、誰』
女が、かすれた声で問うた。
答えが、勝手に唇からこぼれた。あなたよ、と。あなたの、続きを生きている女。
女は、ぽつり、と語り始めた。
『……今日もね、誰も名前、呼んでくれなかった。「経理の人」って。それだけ』
『部屋、帰っても、真っ暗なの。電気つける気力も、なくて』
ロザリンドは、何も言えなかった。終電の窓に頭をあずけて、声にすることすらできなかった、あの夜の重さを、知っていたから。
女は、喉をつかえさせながら、いちばん奥の問いを差し出してきた。
『……ねえ。いつか、誰かに』
『──みつけて、もらえるのかな』
少しの間、会話をした。その後、社畜時代の徹夜明けのような疲労がどっと押し寄せ、石の光がふっと細った。声は途切れ、掌には、ずしりと疲労だけが残った。
──いまのは、何だったの。
問い直そうとして、けれど手がかりは、指のあいだからこぼれていく。
──……あとで、考えればいいわ。
合理的に、棚へ上げる。今は、儀式の最中だ。
***
検査盤の針が振り切れる音。神官の一人が、機器を取り落として両膝をついた。
「……計器の故障では」「いや、波長記録は正常です」「正常で、この出力です」
「――三つ、全て、一致しました」
進行役の枢機卿が、ゆっくりと跪いた。
「真聖女ロザリンド様」
会場の貴族たち、各国大使、文書官、侍従――その全員が、息を止めて、ロザリンドを見た。
ロザリンドは、神殿石を返した。
その動作があまりに事務的で、控えの書記官が小さく咳払いした。
――ふうん。前のときは、何もなかったのにね。
幼い頃、一度だけ、この石に触れさせられたことがある。エイベル家の娘なら念のため、と。石は、うんともすんとも言わなかった。
「公女は聖女にあらず」。神官はそう書いて、それきりだった。
──律子の記憶が、よみがえったから……なのかしら。
確かなことは、何も。わからないものは、わからないままでいい。
***
「真聖女様」
枢機卿が、跪いたまま顔を上げる。
「我ら教会本院、深くお詫び申し上げます。真の徴を見落とし、偽聖女を奉じてきたことは、教会の歴史的失態にございます」
ロザリンドは、何も答えなかった。
枢機卿は続けた。声が、わずかに震えていた。
「つきましては、真聖女様のお力をもって、長らく揺らいでまいりました教会の威信を――いえ、大陸の宗教秩序そのものを、お支えいただきたく――」
かつて「聖女にあらず」と退けた娘を、石が光った途端に祭壇へ担ぎ上げようとする――その魂胆が、言葉の端から滲んだ瞬間だった。
会場の空気が、ぴくり、と動いた。
ロザリンドは動かなかった。けれど、彼女の右斜め後ろ――半歩下がった位置に立っていた男が、枢機卿の言葉を断ち切るように、一歩、前に出た。
足音は鳴らない。ただ、銀糸の刺繍が施された黒の正装が、ロザリンドと枢機卿のあいだに、滑り込む。
ヴェルナント大公ルーカス。
「聖女の座をどうするかは、彼女に決めさせろ。先を続けるな」
短く、低く、しかし有無を言わせぬ声だった。
枢機卿が口を閉じる。神官団が、自分たちが今、何の前にいるのかを思い出したような顔になった。
貴族たちが、扇の陰で顔を見合わせる。
「氷の大公が、あの本院に歯向かった」「真聖女を庇って――先に楯になった」――囁きが、ロザリンドを除く全員の頭を通り抜けていく。
ロザリンドは、ルーカスのほうを横目で見上げた。
――お断りの段取りを、整えてくださったのかしら。
そう、業務上の配慮として受け取って、彼女は静かに頷いた。
***
ルーカスは、振り返りもせず、ただロザリンドの一歩前で枢機卿団を見ている。
ロザリンドはペンを持っていないことに今さら気づき、軽く指先を握り直した。
進行役の枢機卿に向き直る。
「枢機卿猊下」
「は、はい」
「懇談の続きは、別室でうかがいますわ」
公開で続ける案件ではない、と儀礼の体裁を整える一言。
声音は終始一定だった。跪く相手にも、頭を下げる相手にも、彼女の声は揺れない。
枢機卿が立ち上がり、神官団が二礼して退出していく。
会場のざわめきが、ようやく息を吐くようにほどけた。
各国大使が、書記官に小声で何かを口述している。
「真聖女がヴェルナント大公国にいる」――この一文が、明日の朝までに大陸の主要都市すべてに飛ぶ。もう確定していた。
***
謁見の間を出る短い廊下。
ルーカスは、ロザリンドの半歩斜め後ろを歩いていた。儀式の隊列としては正しい位置。
ふと、歩幅がわずかに緩み、彼女の隣に並んだ。
「疲れたか」
「……ええ、正直なところ。座っていただけですのに、妙ですわね」
徹夜明けにも似た、芯の重い疲れ。心当たりは、あの石が光った一瞬しかない。けれど、それを口にする術を、彼女はまだ持たなかった。
ルーカスは、彼女の右の掌に、一瞬だけ視線を落とした。神殿石を載せていた、その手に。
──あの石が光った刹那、半歩後ろから、彼女の指先から血の気が引くのを、彼は見ていた。
「あの石のせいか」
ロザリンドは、少し言葉に詰まった。
「……さあ。わたくしにも、わかりませんの」
わからないものは、わからないまま。いまは、そう答えるしかなかった。
ルーカスは、それ以上は訊かなかった。ただ、覚えておくことにした。
「次の懇談は、東の小謁見室にした。窓が小さい」
ロザリンドは、少し間を置いた。
業務上の配慮として受け取り直し、軽く頷く。
「ご配慮、感謝いたしますわ」
「……ああ」
ルーカスが、視線を前に戻す。
口角がわずかに上がったのを、隣を歩く侍従だけが見て、すぐ目を逸らした。
***
東の小謁見室。
枢機卿団が、改めて着席する。窓は小さく、声が外へ漏れる造りではない。
「真聖女様。改めまして――真聖女としての、ご叙任の儀につき」
ロザリンドは、紅茶のカップを、テーブルの定位置に戻した。
「ご懇談の趣旨は、承りました」
カップが、わずかな音もなく、皿に着地する。
「お返事は、明日。書面にてお渡しいたしますわ」
「真聖女様、これは大陸の安寧に関わる――」
「だからこそ、本日中にはまいりませんの」
微笑みすら浮かべて。
「労働には対価が伴います。口頭の言質は致しませんの」
枢機卿団が、互いを見た。
ロザリンドの斜め後ろで、ルーカスが目を伏せている。口元の、ほんの少しの緩みを、誰も見ていない。
***
懇談が終わり、廊下に出てから、ルーカスがぽつりと言った。
「明日の朝、君の机に焼き菓子を置いておく」
「……儀式の続きでしょうか」
「いや。大陸じゅうが読む書面だ。万全の体制で臨むために、準備する」
そう言って、ルーカスは廊下を曲がっていった。
廊下の窓から、雪が見えた。
明日、書く返事の最初の一言を、ロザリンドはすでに頭の中で組み上げていた。
──たった、十文字。
焼き菓子を堪能してから書こう、と思った。彼女にとっては、その程度の返事でしかなかった。
神殿石が焼けるように光った会場の温度差と、「前のときは誰も呼んでくれなかったのにね」にざわっと来たら、【びっくり】を! ★がひとつ増えるたび、明日の更新の歩幅が広がります。




