古文書の徴
冬の朝、ヴェルナント大公国の書庫の扉が、いつもより早い時間に開いた。
「閣下! ……いえ、エイベル様、おはようございます!」
文書官長のオーウェンが、両手で抱えた革表紙の写本を、執務机の上にどさりと置いた。乾いた羊皮紙の匂いが、紅茶の湯気と混ざる。
ロザリンドは関税表からゆっくり顔を上げ、まばたきを一回した。
「おはようございます。……オーウェン、髪が乱れていますわよ」
「は、はい、申し訳……いえ、それどころでは」
「落ち着いて。深呼吸。労働の前に呼吸ですわ」
オーウェンは大きく息を吸い、それから一気に吐いた。
「徴です。真聖女の徴でございます」
「……はい?」
ロザリンドの右手のペンが、書類の上で止まった。
王太子の土下座も、ミリアの縋りつきも、まだ氷の上の塵のように残っている、その朝のことだった。
***
「教会本院が長年塩漬けにしてきた写本でございます」
オーウェンは興奮を抑えきれず、写本を開きながら早口になっていた。
「真の聖女には、三つの徴が記されておるのです」
「三つ」
「第一に、月光に近い銀の髪」
「ええ」
「第二に、深海の青を宿す瞳」
「ええ」
「第三に、朔の刻にだけ反応する魔力波長。──この三つを満たした聖女は、有史でただ一人きり」
「ひとり」
「初代聖女セラフィーナ。灯火の聖女、と。いまの魔導計器も、大陸を結ぶ通信塔も……あの御方が異郷の知をもって世に遺したと、本院の写本は伝えております。爾来、幾百年、該当者は、ただの一人も」
「で」
「今回、二つまで、該当いたしました」
「で、関税表の修正案は、まだ三枚残っておりますわよね」
オーウェンの口が、半開きのまま止まった。
ロザリンドは長い睫毛をひとつ伏せて、関税表の数字に目を戻した。
──前世なら、終電前まで残業しないと片付けられない量だわ。
「あの、エイベル様」
「ええ」
「該当者、と申し上げました」
「ええ、聞きましたわ」
「該当者は、その……」
助手の若い文書官が、卒倒しそうな顔で写本のページを示す。
オーウェンが咳払いし、震える指で一枚の細密画を写本の脇に並べた。
ロザリンドの肖像画だった。先月、貨幣改革の功績として宮廷画家が描いた一枚。
銀の髪。青の瞳。
文書官長は、もう声が出ないらしかった。
「……」
ロザリンドはしばらく、写本の文と肖像を見比べていた。
それから、紅茶を一口飲んで、言った。
「この写本、もとの棚へ。湿気で傷みますから、奥ではなく手前の段に」
「は」
オーウェンが机に額をぶつけそうな勢いで頭を下げた。
「閣下にだけは、お先に、お伝えしておくべきかと存じまして!」
「閣下ではなく、経済顧問ですわ、わたくし」
「……は、はい!」
「では、教会本院に正式な照会を。手続きは通常通り。それから、お疲れさまでした。文書官団に菓子を差し入れますわ。書庫が冷えるでしょう」
文書官たちは、揃って深々と頭を下げてから、写本を抱えて退室していった。
扉が閉まる。
ロザリンドはペンを取り直して、関税表の三枚目の修正案に取りかかった。
数秒後、執務室の奥の扉が、音もなく開いた。
***
「……ロー、いや、ロザリンド」
言いかけた音を、ルーカスは途中で飲み込んだ。隣室で控えていた彼が、扉を押して入ってきた。報告は、最初から聞こえていたらしい。
ロザリンドは顔を上げず、ペン先を動かしたまま答えた。
「閣下。どこから聞いていらっしゃいましたの」
「月光に近い銀の髪、のあたりから」
「最初からですわね」
「ああ」
ルーカスは机の脇まで来て、写本の表紙に指を一度だけ触れた。
薄い青の瞳の奥で、何かが、わずかにほぐれている。
「本院から、使者が来るぞ」
「ええ」
「いいのか」
「祭壇に飾られて、ありがたがられる趣味はございませんの。聖女の座など――そうですわね、関税表の三枚目ほどの値打ちもございませんわ」
「……ふ」
ルーカスが、わずかに口角を上げた。
公の場では誰も見たことのない、彼の素の微笑だった。
ロザリンドは目線を上げない。気づいていない。
机の上に、紅茶のおかわりと、焼き菓子が一皿、いつのまにか足されていた。
ペン先がふと止まる。
「……あら。これ、いつから」
「さっき」
「あら」
ロザリンドは焼き菓子をひとつ摘んで、口に入れた。
冬の朝の、いつもの味だった。
***
窓の外で、雪が、本格的に降り始めていた。
王太子の土下座も、ミリアの縋りも、もう遠い。
ただ、雪の向こうから、もうひとつ、何かが、こちらへ歩いて来ようとしていた。
教会本院の、銀色の使節が。
ロザリンドは関税表の四枚目を、引き出しから取り出した。
「閣下。午後の貿易協定の修正案、最終確認、よろしいですか」
「ああ」
「では、続けますわ」
ルーカスは何も言わず、彼女の隣の椅子に腰を下ろした。
「ロザリンド」
「はい」
「明日、君は世界の真ん中に立たされる」
「左様で」
ロザリンドは関税表の四枚目に、几帳面な丸印をひとつ書き加えた。
「世界の真ん中」を、彼女は業務上の比喩としか受け取っていない。
ルーカスは、それ以上は言わなかった。
雪は、まだ降っている。
世界がひっくり返る発見より「関税表の残り三枚」が先、なロザリンドについ笑った方は、【笑える】か【いいね】を! ★は雪の朝の焼き菓子のとなりに、そっと一つ。




