お断り申し上げます──回廊から見送る、二台の馬車
応接室の扉が閉まる音を、ロザリンドは背中で聞いた。
「お姉様の代わりに」という一言を、ミリアは最後まで撤回しなかった。取り乱し、侍女に抱えられ、引きずられるように連れ出されていく。その最後の叫びを、扉一枚で断ち切った後だった。
廊下に出ると、ルーカスが壁にもたれて待っていた。
中で何が話されたか、彼は訊かなかった。報告は書記から上がる。それ以前に、ロザリンドが自分の足で扉を抜けてくるのを、ただ待っていた。そういう立ち姿だった。
ロザリンドが歩き出すまで、彼は壁から背を離さなかった。半歩、彼女が動いて、それから、ようやく、彼も動いた。
「終わったか」
「ええ。ただ、両者ともに、出立の見送りだけは儀礼上必要かと」
「……君がそう判断したのなら、それでいい」
ロザリンドは予定表を開き、空白に短く書き込んだ。
「城門上、回廊。十分」
十分しか取らない、という意味だった。
***
城門の上の回廊は、冬の風が抜けて寒かった。
ロザリンドは手すりに片手を置き、下を見下ろした。
中庭には、二台の馬車が並んでいた。先頭にアルフレッドの紋章、後ろにミリアの簡素な貸し馬車。
──同じ門を出るにしては、ずいぶん格差のついた配車ね。
ルーカスはロザリンドの半歩後ろに立っていた。
馬車の扉が開く。アルフレッドが姿を見せ、こちらを見上げた。
「ロザリンド!」
回廊までよく通る声だった。声を張れる体力がまだ残っているらしい。
「せめて、昔の誼で……ひとことだけでも、考え直してはくれぬか」
ロザリンドは手すりを軽く指で叩いた。
──昔の誼。
──出ました、最終手段の感情論。引き止めるなら、こちらが在籍しているうちになさってほしかったですわ。
ロザリンドは口の中だけで小さく息を吐き、口を開いた。
「それは無理な話ですわ」
回廊の風が、銀の髪を流した。
「あの椅子の労働条件を、私は最初から存じておりました。だから、婚約破棄はありがたくお受けいたしましたの」
アルフレッドの顔がこわばる。後ろの馬車から、ミリアが半身を乗り出してこちらを見上げた。喪服のような黒い旅装が、風にあおられている。
「お姉様……っ、私、こんな椅子、望んでなんかいなかったわ……!」
ロザリンドは、その声に温度を返さなかった。
「かつて、あなたが渇望した椅子でしょう。最後まで、座り続けなさい」
ミリアの肩が震えた。アルフレッドは口を開きかけて、続く言葉が出なかった。
そして、最後の一段。
ロザリンドは視線を、二台の馬車の真ん中に置いた。
どちらに向けてでもよかった。どちらにも届く必要があった。
姿勢を正し、貴族令嬢の最も丁寧な礼の角度で、頭を下げた。
「改めて、お断り申し上げます」
***
数秒、誰も動かなかった。
ミリアが、馬車の窓から身を乗り出して叫んだ。
「お姉様……ッ」
続きはなかった。
代わりに動いたのは、ルーカスだった。
ロザリンドの肩越しに、一歩前に出る。中庭を見下ろし、視線はアルフレッドだけに向けた。
「王太子殿下」
低い声だった。回廊の石に、わずかに反響した。
「次にロザリンドの名を、その口から呼ぶことがあれば──」
一拍、置いた。
「外交問題ではなく、私個人の問題として処理いたします」
回廊の端に控えた侍従頭が、わずかに目を見開いた。
──閣下が「個人の問題」と口にされたのは、お仕えして十年、初めてだ。そういう顔だった。
アルフレッドの顔から血の気が引くのが、回廊からでも見えた。
***
馬車が動き始めた。
二台が中庭を抜けていく。アルフレッドは最後までこちらを見上げていた。ミリアの馬車の窓は、いつの間にか閉まっていた。
馬車が城門を抜け、雪の街道に消えていく。
ロザリンドは手すりから手を離した。
そして、ルーカスに見えない側の袖の中で、そっと、小さく、拳を握った。
──律子
口には出さなかった。
──あなたを罵った上司、ようやく、私の足元から馬車で去っていったわよ
──ガッツポーズ、しておこうかしら
袖の中の拳が、誰にも見られないまま、緩んだ。
第一章では、衆人環視の中で堂々と掲げた拳だった。今日は、袖の中に隠れていた。
隠す必要があったわけではない。
ただ、もう、誰かに見せるためのものではなかった。それだけだった。
***
「ロザリンド」
ルーカスの声に振り返る。
「冷える。中へ」
「ええ」
回廊を戻りかけて、ロザリンドはふと立ち止まった。
「閣下」
「ん」
「祖国の宰相からの嘆願書、四通目は、もう開封不要でよろしいかしら」
「……君がそう判断したのなら、それでいい」
ロザリンドは小さく笑った。
ルーカスも、ほんのわずかに、口角を上げた。
***
執務室に戻ると、机に新しい封筒が一通、置かれていた。
侍従頭が、いつもと違う表情で立っていた。
「閣下、ロザリンド様。教会本院から、早馬でございます」
ルーカスが封蝋を見て、わずかに眉を上げた。先に開封し、一読する。
短い書面だった。
> 古文書の照合により、現行の聖女認定の典拠に重大な誤りを確認した。
> よって全土の聖女認定を見直し、真の徴をもって、各国の聖女を神殿石にて改めて照合する。
ロザリンドはそれを受け取り、封筒を裏返し、また表に戻し、書面にもう一度目を通した。
表情は、変えなかった。
「……古文書、ですか」
ひとことだけ、誰に問うでもなく、口の中で転がした。
「承知いたしました。次の業務に取り掛かりますわ」
ルーカスが、書類の束を整えながら、低く呟いた。
「……忙しくなりそうだ」
窓の外で、雪が、また降り始めていた。
──同じ頃、祖国の教会本院では、古文書庫の扉が、百年ぶりに開かれていた。
最敬礼の「お断り申し上げます」の痛快さに【びっくり】か【いいね】、袖の中にそっと握られた拳にじんと来たら【泣ける】を! ★は、馬車を見送る彼女の隣に立つ気持ちで。




