お姉様、助けて──妹だった覚えはございませんけれど
王太子を控えの間に下げてから、まだ半刻と経っていなかった。
「ロザリンド様」
執務室の扉を、近衛のひとりが叩いた。声が、おかしいくらい静かだった。
「失礼いたします。──門前に、もう一台、馬車が」
ロザリンドはペンを置いた。
「どちらのご家紋ですの」
「それが……家紋なし、で」
近衛が一枚の紙片を差し出す。震える指先。文字は走り書きだった。
> 聖女候補ミリア・ロウ。お姉様にお目通りを願います。
──お姉様、ね。
──妹だった覚えは、ございませんけれど。
ロザリンドは紙片を二度読んで、卓の隅に伏せた。
「面会は、刻を改めて。執務時間内に、十五分。城の応接室を使います。侍女一人のみ随伴可。それ以外は、門の中に入れません」
「畏まりました」
近衛が退室した後、机の向こうでルーカス閣下が手にしていた書類を、一度、卓に伏せた。
「君がそう判断したのなら、それでいい」
「はい。ただ、閣下」
「言ってくれ」
「この三十分、書記を一人、必ず同席させてくださいませ」
「……記録を残すのか」
「ええ。あの方の言葉は、後でどう書き換えられるかわかりませんもの」
閣下の視線が、伏せた書類からロザリンドの横顔へ移り、そこで一拍、止まった。何か言いかけて、結局、言わない。指先が、卓の上の書類をわずかに自分の側へ寄せた。ロザリンドは気にしない。
──揉め事は、当事者間の記録を残すところから始まりますの。前世で学んだ、最初の鉄則ですわ。
***
刻を移して、応接室。
通されてきたミリアを見て、ロザリンドは手元の予定表の「面会、三十分」を、心の中でもう一度なぞった。
喪服のような旅装。化粧は崩れ、髪の根元が色を変えている。聖女候補と呼ばれた頃の、あの計算された純白は、もうどこにもない。
「お姉様」
第一声が、それだった。昨夜の走り書きと、同じ呼び方。
──やはり、その呼び方でいらっしゃるのね。
ロザリンドはカップを傾ける。紅茶の温度をひとくち確かめてから、口を開いた。
「ミリア様。三十分しかございませんの。ご用件をどうぞ」
「お姉様……お姉様、助けて」
「ご用件を」
「あなたなら、こうなるって、知ってたんでしょう?」
涙が、規定の量、規定のタイミングで落ちた。技術は健在だ。
「なぜ、なぜ教えてくれなかったの」
書記のペンが、紙の上で軽く震えるのが見えた。ロザリンドは彼に向かって、ごく短く頷く。──書き取って構いません、という合図。
「お姉様は経済の天才で、未来も見えていたって、皆そう言ってます」
「……」
「私、本当は……お姉様のことを、ずっと尊敬していて……」
後出しの尊敬。成功した者の足元に、後から敷かれる赤い絨毯。安いものだ。
ロザリンドはカップを置いた。
「ミリア様」
「は、はい」
「私、未来は見ておりませんわ」
ミリアが顔を上げる。涙の膜越しの緑の瞳が、ぐらりと揺れた。
「見ていたのは、契約書の条項ですの」
「け、契約書、って……」
「婚約破棄の場で、私はあの椅子から降りました。あなたがその後に座った椅子の座り心地まで、存じ上げませんの」
ロザリンドはゆっくり、ひと言ずつ刻んだ。
「誰に強いられたわけでもなく、あなたが進んでお選びになった椅子ですわ」
ミリアの口が、声にならない形で開いた。
「私、何も知らなかった……騙された……」
崩れるように卓に伏す。喪服の肩が小さく上下する。
書記のペンが「騙された」の四文字を、几帳面に書き取っているのが見えた。
ロザリンドは紅茶の二口目を口に運んだ。──この紅茶、悪くないですわね、と頭の端で思う。
卓に伏すミリアを見ても、ロザリンドの中で動くものは、何もなかった。
報告書は、ここへ来る前にひと通り読まされている。彼女が祖国でどう転がり落ちたか。それは「片づけるべき案件の経緯」として頭に入っているだけで、それ以上の意味は、持たなかった。
「……お姉様」
伏せた顔のまま、ミリアが呟いた。
「お姉様の代わりに、私が産んだのに」
ロザリンドはカップを、卓の上に戻した。
音が、思ったより硬く響いた。
「代わりに?」
初めて、ロザリンドの声から温度が抜けた。
ミリアが顔を上げる。涙の量が、さっきの倍になっていた。──技術ではなく、本物のほうの涙だ。
ロザリンドは、その顔を真正面から見据えた。
「私はあなたに、誰の代わりも頼んでおりませんわ」
壁際に控えていた侍女が、思わず、というふうに小さく息を呑んだ。
***
応接室の時計が、控えめに時を刻む音だけが──残った、はずだった。
「……なんで」
ミリアの唇が、動いた。
「なんで、そんな言い方が、できるのぉーーーー」
本物の涙を頬に残したまま、その奥の目だけが、泣くのをやめていた。
「あなたさえ……あなたさえ、あの時、土下座でもなんなりして、詫びの一つでも入れてでも、王妃になっていれば……!」
立ち上がった拍子に、椅子が背後で倒れた。
「私は、こんな目に遭わずに済んだのに! 全部、全部あなたのせいよ……ッ!」
書記のペンが、一瞬、止まった。
──あら。
ロザリンドは座ったまま、瞬きをひとつ。
──仕向けたのは、あなたでしょうに。
──そして今も、それを忘れていらっしゃる。
視線だけで書記を促す。ペンが、再び走り出した。一言一句、几帳面に。
「ミリア様」
ロザリンドは、倒れた椅子には目もくれなかった。
「申し遅れておりましたが、御礼申し上げますわ」
「……え……?」
「感謝は、しておりますのよ」
ミリアの目が、見開かれた。
「あなたが私から、あの椅子を奪ってくださった。おかげさまで私は──自由ですもの」
「な……」
「ですから、これは私怨でも、報復でもございませんの」
ロザリンドは、卓の上の予定表の端を指先でまっすぐ揃えた。
「私は大公国の経済顧問。すべて国益に基づいて判断いたしますわ。上に立つ者が私情で天秤を傾ければ、下の者に示しがつきません。あなたをお助けしないのは私情ではなく──お助けする理由が、この国のどこにも見当たらないからですの」
──まあ、私情で決めてよろしいのなら、なおのこと、お助けする気は毛頭ございませんけれど。
「──ただ、ひとつだけ」
ロザリンドは、卓の端から指を離した。
「いつか。その椅子を、誰かのせいになさるのをおやめになって。ご自分の足で立ったことも、人を蹴落としたことも、ぜんぶご自分の手でなさったのだと、心から悔いる日が来たなら」
ほんの一拍、置いて。
「そのときは──少しは、考えて差し上げてもよろしくてよ」
ミリアの顔に、すがるような光が、よぎる。
「もっとも」
ロザリンドは、その光をあっさりと拭い去った。
「今のあなたを拝見するかぎり、その日が来るとは、とうてい思えませんけれど」
ミリアの膝から、力が抜けた。
卓に両手をつき、崩れるように、伏せる。
「面会、残り三分でございます」
書記が、声を落として告げた。
ロザリンドは立ち上がった。
「ミリア様。お引き取りくださいませ。──門の外までは、当国の馬車をお出しいたします。それは、私の慈悲ではなく、ヴェルナント大公国の体面のためですので、お間違いなきよう」
背を向けた、その瞬間だった。
「待って」
卓に伏せていたミリアが、はじかれたように身を起こした。
「待ちなさいよ、お姉様……ッ」
声が、裏返っていた。
「助けてって言ってるでしょう!? 聞いてた!? 私を見捨てるの!? あなたのせいで、こうなったのに──!」
卓を回り込み、ロザリンドの背へ手が伸びる。
その腕を、横から別の手が掴んで止めた。
壁際に控えていた、ミリアの侍女。祖国から付き従ってきた、ただ一人の随伴だった。
「ミリア様、なりません……っ。お願いですから、おやめくださいませ……!」
「離して! 離しなさいよ! お姉様……お姉様ァ!」
侍女が半ば抱きかかえるようにして、ミリアを扉の方へ引き戻していく。喪服の裾が乱れ、床を擦った。
書記がすばやく立ち、扉を開けて道を空ける。
ロザリンドは、振り返らなかった。
「お姉様ァ……ッ」
その叫びが、廊下の遠くへ運ばれていく。──扉が、閉まった。
応接室に、ロザリンド一人が、残された。
──お断り申し上げる暇も、くださいませんでしたわね。
言いかけて呑み込んだ続きを、ロザリンドはそっと口の奥へ戻した。
──いえ。
そういえば──控えの間に、もうお一方。先に通して、下げたまま、お預けしている御方がいらしたわ。
──ちょうど、よろしいですわね。
おひとりずつ応対していては、刻がいくらあっても足りません。同件は、まとめて片付ける。──前世から、変わらない流儀ですわ。
廊下に出ると、窓の外──中庭に、二台の馬車が見えた。
先に通された王太子の、大仰な紋章付き。その後ろに、ミリアを乗せてきた簡素な貸し馬車。並ぶには、ずいぶんと不釣り合いな二台だった。
──律子。この後、まとめて片付けるわよ。
袖の中で、ペンを握り直した。
「私は誰の代わりも頼んでおりません」の揺るがなさに拍手を送りたくなったら、【びっくり】か【いいね】を! ★は彼女のまっすぐさへ一票として。




